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2014年05月03日

『原理講論』語句解説(23) 摂理的同時性から見た復帰摂理歴史と復帰摂理延長時代(2)

『原理講論』には難しい言葉が使われている箇所が多くあります。そのため、意味がつかめなかったり、文脈からしてこうではないかと推測するものの、違った意味に捉えてしまうようなこともあります。そこで、難しい言葉に解説を加えてみました。

[ ]の中は、『原理講論』のページ数と、行数を示しています。一つの言葉に、二つ以上の意味がある場合、『原理講論』で使われている意味のほうに☆印をつけました。反対語は⇔で、参照は→で示してあります。

<摂理的同時性から見た復帰摂理歴史と復帰摂理延長時代>

[473-2]聖(せい)アウグスチヌス

アウグスティヌスとも。354〜430。西方教会最大の教父。古代文筆家として、現存する著作についても最大である。古代の思想を集大成して中世の世界を開いた人であり、キリスト教信仰と思想との豊かな源泉として今日に至るまでカトリック、プロテスタントの両陣営から注目されている。11月13日ヌミディア(北アフリカ)の小村タガステ(現アルジェリアのスーク・アラス)に生まれる。父パトリキウスはローマ人、母モニカはベルベリ人で中産階級(小地主)に属していた。若い頃から弁論術の勉強をし、370年から西方第2の都市カルタゴで弁論術を学ぶ。372年、同棲中の女性との間に私生児である息子アデオダトゥス(「神からの贈り物」の意)(372~388)が生まれる。同棲は15年に及んだといわれる。当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている。キリスト教に回心する前は、一時期(373年~382年)、善悪二元論のマニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子供から「とって読め」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマ人への手紙」第13章14節の「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる。故郷北アフリカのヒッポの司教となり,異端との論争を通じてキリスト教の神学的基礎を開く。パウロを高揚し,原罪を負う人間は神の恵みによってのみ救われるという恩恵論を提示。主著に『神の国』『告白』『三位一体論』『ヨハネ福音書注解』などがある。

[473-3]神国論(しんこくろん)

アウグスチヌスの主著。世界の創造以来の歴史を地の国とそれに覆われ隠されている神の国の二つの歴史として叙述する。全22巻より成り、前半10巻で地の国を、後半12巻で神の国を論ずる。アウグスチヌスは410年のゴート族によるローマ陥落を機に噴出したキリスト教への非難に、この著作によって応えた。

「神の国」は聖書の語句であり、アウグスチヌスの著書のみならず、全てのキリスト教で使われる。

[476-12]オットー一世

912〜973。大王。ザクセン王朝第2代のドイツ王(936〜973)。第1代の神聖ローマ皇帝。カロリング王朝絶系後の混乱を収拾して国家統一の基礎をおいた父、王ハインリッヒ1世の遺業を継承し、国内諸侯の権力を抑え、王領伯の制度を用いて王権の伸張に努めた。

[477-2]ヤラベアム

ヤラベアム一世(在位:前922〜901)。シケムの南西ゼレダのエフライムびと、ネバテの子。ソロモンの家来であったがレハベアムに背き、分裂後の北王国イスラエルの最初の王となった。

[477-4]カルメル山(さん)

長さ約24キロメーターにわたる一連の丘陵で、その北西の端は地中海に突き出した岬をなし、南東の端はサマリア山地と連なる。カルメル山は、預言者エリヤがバアルの預言者たちと対決をした場所として有名である。そこには古くから聖所があって、エリヤはそこで祭壇を築き、主に祈ったところ、天から火が降り、主が真の神であることが証明された(列王紀上18:17〜40)。

[477-5]アシラ

カナン宗教の肥沃祭儀における礼拝の対象としての女神。アシタロテと共に古代オリエント全域で信奉されていた。それらの配偶者は一般的にバアルであった。

[477-5]エリシャ

前9世紀のイスラエルの預言者。父の名はシャパテと言い、相当富裕な農夫であった。エリシャは、エリヤの弟子で、エリヤが昇天するときに霊を分け与えられた(列王紀下2:9〜25)。彼は職業預言者集団の頭であった。

[477-5]ヨナ

預言者。ヨナ書の主人公。ヨナはガテ・ヘフェルの生まれで、ヤロブアム二世の治世(前790〜749年)に生存し、イスラエルの失われた領域を回復することに力を貸した(列王紀下4:25)。ヨナは預言者であるとともに有名な政治家であった。「ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」(ヨナ3:1)という主の言葉がヨナに臨む。ヨナはこの神の命令を受けたとき、全く神の意に反して、立ってヨッパに下り、船を見つけ、賃金を払って乗り、主の前を離れて、タルシシに向かって逃げた。

[477-5]ホセア

ベエリの子(ホセア書1:1)で、前8世紀後半の北王国イスラエルで活動した預言者。北王国末期の内政の混乱とアッシリアの侵攻という民族的危機の中で、歴史意識を先鋭化させ、それまでのイスラエル史を背信の歴史として捉え、結果としての現在の宗教的社会的堕落を批判・告発し、神の審判を語った。同時に、神からイスラエルに対して深い愛が注がれてきたことを想起させ、それに応える生き方へと方向転換するよう促した。彼の預言活動には自身の結婚生活とその破綻という個人的な困難(ホセア書1〜3章)が影響している。

[477-6]アモス

最初の文書預言者。アモス書の著者。ユダのテコア出身の預言者。アモス書第1章1節の表題によると、北イスラエルの王ヤロブアム(前787〜747)とユダの王ウジヤ(前783〜739)の在位時代、ユダに大地震が起こる2年前、おそらく前752年頃、北イスラエルの聖所ベテルと首都サマリアにおいて、繁栄に慣れて横暴な支配を行っていた支配階級に対して、激しい批判の言葉を語り掛け、北イスラエル王国の滅亡を預言した。このことによって、彼はベテルの祭司アマツヤによってユダに追放された(アモス書7:12、13)。

[477-9]レハベアム

アンモンびとの娘ナアマによって生まれたソロモンの子(列王紀上14:21以下)。統一王朝最後の王であり、彼の治世の初めに王国は南北に分裂した。

[477-9]ゼデキヤ

南王国ユダの最後の王(在位:前597〜586⁄7)。ヨシヤ王の末子、エホアハズ王の実弟、エホヤキム王の異母弟、エホヤキン王の叔父に当たる。甥のエホヤキン王がその父エホヤキムのバビロニアに対する反逆の罪を問われ、国の主だった者と共にバビロンに捕虜として拉致されたのち、ゼデキヤはネブカデネザルによって王とされた。

[477-10]ヨシヤ

ダビデ王朝第17代のユダの王(在位:前640〜609)。その治世は31年にわたる。彼の治世中に行われたエルサレム神殿改修工事の最中に発見された律法の書の発見に従い、ヨシヤの主導による主との契約、それはその後彼がイスラエルに残存する非正統的聖所の廃棄および祭儀のエルサレム集中についてであり、その行動によって、列王記は「主の目にかなう」善を行った王として評価している。しかし彼はアッシリアに向かって進攻しつつあったエジプト王ネコと戦うべく出陣し、そこで戦死する(列王紀下23:29)。列王記においては、彼以後ユダ王国の滅亡が不可避となるという記述に移る。

[477-15]カルデヤ

カルデヤはチグリス・ユーフラテス両川の下流域バビロンとペルシャ湾に挟まれた地域に位置する。シナルとも呼ばれた(創世記11:2)。その付近一帯は湿地帯で、アブラハムの故郷ウル(創世記11:28、ネヘミヤ記9:7)やエレクといった古代から栄えた町を除けば、それほど大きな町はなかったようである。

しかし、のちにはこの語はさらに広い地域を示す語となり、バビロニア帝国最後の王朝時代(前625〜539年)には、バビロニア帝国を指すようになった(列王紀下25:5)。その国の住民はカルデヤ人と呼ばれ、ネブカデネザル王のもとで最盛期を迎えた。

[477-16]粛正(しゅくせい)

厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること。また不正や反対者を厳しく取り締まること。政治的には、組織の一体性・純粋性を保つため、組織内から異分子人物・勢力を排除すること。

[478-1]聖(せい)フランシス

アッシジのフランチェスコとも。(1181⁄82〜1226)。イタリアの神秘家、フランシスコ会の創始者、聖人。1205年に俗世の生活を離れ、貧者や病人の世話に献身し、隠者として暮らした。1210年までには11人の門徒をもち、フランチェスコ会の生活様式となる規則をつくったが、そこではあらゆる財産は否定された。1219年までにその教団は5000人を数えた。ヨーロッパと聖地を広範に回って説教し、イタリアに帰ったときには、彼の体はキリストの傷痕を受けたとされている(1224)。1228年に聖人とされる。動物や鳥たちを兄弟姉妹と呼び、一緒にいるさまは、しばしば芸術作品中に表現されている。

[478-3]十字軍

中世に、西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラーム諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のこと。一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。

実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当てはまるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラーム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。11世紀末から13世紀後半過ぎまで(1096〜1270)、前後8回にわたって行われた。十字軍に参加することは罪を贖宥(罪の赦し)が約束された。

[478-3]カリフ帝国(ていこく)

カリフは、預言者ムハンマド亡きあとのイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。

イスラム帝国という呼称は、特にアッバース王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。

[478-4]セルジュク・トルコ

トルコ民族の一派が建てた王朝。10世紀にトルコの族長セルジュクがウラル海の北東岸に移住して、イスラームに帰依し、その孫の時代に至ってイラン、イラクを領有して、セルジュク朝を建てた(1055)。

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