良心は神様に優る、良心は第2の神様、という真の父母様のみ言があります。
私自身がいつ、このみ言を初めて聞いたのかは覚えていません。ただ不思議なことに、初めて、「これは良心の声なのかな」と意識したときのことは覚えています。
あらかじめ申し上げておくと、この話をするとだいたい、「なんだ、そんなことか」と拍子抜けされてしまいます。それほど、何気ない出来事だったのですが、私の中では特別な瞬間として、はっきりと心に残っているのです。
小学6年の夏休みに、教会学校主催のキャンプで、山の中腹にある宿泊施設に泊まったときのこと。だいたい、お決まりのパターンとして、私は夜、同い年の子と遅くまでおしゃべりをしていました。
たわいもない話をし、ボードゲームをし、最後は「どっちが遅くまで起きていられるか」を競うという、幼いことをやっていたのですが、やがて相手が沈没。
私一人が起きている結果となり、「ついに勝ったぜ」という思いと、一人取り残されてしまったという思いがない混ぜになる中、ぼんやりとしていたときに、ふと思ったのです。
「あの子、このままだと風邪引いちゃうかもしれないよ」
夏ではありましたが、その宿泊施設は山の上にあったので、意外と夜は冷えたのです。
そして、最後まで起きていられるかを競っていた相手の子は、毛布も何もかぶらず、寝落ちしていました。
そこで気になって起き上がり、その子に毛布をかけてあげて、また布団に戻り、私もうとうとと眠りについたのです。

ただ、これだけ。でも、そのときに、自分でもこういうことを感じ、こういうことができるんだっていう、不思議な思いと喜びに包まれたのです。自分も捨てたもんじゃないなと(笑)。
それ以前にも、何か良心の声を感じ、それに従って行動したことはあったと思うのですが、はっきりと覚えているのは、このときの出来事です。
最近、なぜこのことを改めて思い出したのかというと、先日、部活で疲れて帰ってきた高校生の息子が、ソファでそのまま寝落ちしていて、思わず「このままじゃ風邪引くかもよ」と思い、毛布をかけてあげたからです。

今となっては、親として当たり前過ぎることなのですが、それでも、このような場面に遭遇すると、あのときのことを思い出すのです。
あのとき、私に語りかけてくれた良心の声は、今も違う形で、私に訴えているかもしれません。
大人になって、その声に従えない理由をいくつも挙げようとする自分もいますが、それとともに、純粋にその声に従ったあのときの自分のこともいつも覚えていたい。そう思います。
皆さんはどんなとき、良心の声を聞きましたか?