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2014年05月06日

【応答話法例文集】 vol.1信仰する必要などないのでは?

Q:信仰する必要などないのではないですか

A:なぜ信仰する必要がないと考えるかが問題になります。これには、人によって、さまざまな答えが出てくるのですが、大きく分けると、科学によってどんな問題でも解決できるという「科学万能主義」の考え方と、もう一つは、自分自身の信念や良心によって生きていけばよいとする「世俗的ヒューマニズム」の考え方の二つになります。

①  科学を絶対とする人に

科学の発達は、確かにめざましいものがありますし、かつては夢にしかすぎなかったことが、次々と科学の力で現実化されていることも事実です。そうした、飛躍的な発達ぶりだけをみていると、なんでも科学が解決してくれるような期待をもちたくなるのも無理はありません。

しかし、ここで知っておかなければならないことがあります。それは、科学が探究し、分析して法則性を導き出し、それを活用して人間生活に役立てることができるのは、この世界のなかでもごく限られた範囲にすぎないということです。

極端な例をいえば、知性や意思、感情をもって自由に動き回る人間については、ほとんどなんの法則性も確立できないのです。それは、ある程度の知能をもった動物についても、同じことがいえます。人間について科学が解明できないということは、何を意味するのかというと、科学の力によってどんなにすばらしいエネルギーを手に入れたとしても、それがはたしてどのように使われるのかが分からないし、指導することもできないということです。

例えば、科学は原子力という莫大なエネルギーを人類に与えることに成功しましたが、それをどのように使うかについては、科学は何の指導力ももっていないのです。むしろ科学は、その背後にある権力というより大きな力によって道具的手段として使われてきた、というのが実情ではないでしょうか。

また、機械文明の発達によってもたらされた深刻な人間疎外や、高度産業の陰に生み出されているさまざまな公害、医学の発達の裏側にも、人間性を軽視する考え方がはびこり、現代人の心に深い悩みをもたらしています。

これらの苦悩は、科学の未発達によって起きたものではなく、むしろ科学がアンバランスに発達しすぎたために起こっているのです。人間の本当の幸福を実現する道は、この科学の発達とほどよくバランスのとれた英知の発達以外にありません。

言い換えると、人間が科学に支配されるのではなく、人間が科学を主管していくことが、人間が本当の幸福を実現する道なのです。したがって、科学万能の考え方が、人間を不幸と不安のどん底におとしいれてきたといっても過言ではないのです。

②  信念や良心で十分とする人に

信念や良心は、ともすれば不変のものであるかのように思われがちですが、これは、時代と環境によって、さまざまに変化するものです。私たちにとって、比較的身近な例をみても、第二次世界大戦中は、基本的人権を否定してでも全体主義に生き、戦争に協力することが大部分の日本国民の信念であり、良心でした。

ところが、戦争が終わってみると、かつての”英雄”は戦争犯罪人にされてしまいました。

確かに信念と良心に生きることは、人間として大事なことです。そうであればこそ、何を対象としての信念か、いかなる内容の良心かを深く、鋭く問い直してみる必要があります。そして、時代や環境を越えた、不変の信念、永久に壊れない良心というものを自分でつかみとることが大事なのです。

信念といい良心といい、結局、各人が心のなかにもっている物事の判断の“物差し”にほかなりません。その“物差し”は、その人がこれまでの人生経験や学問を通じて、知らずしらずつくりあげてきたものです。ですから、ときには全く逆の内容を自分の信念としてもつようになることもあるのです。

【応答話法例文集】の活用法と注意点についてはこちら

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