私は2020年2月、念願の祝福を受けることができました。そのとき祝福を受ける前に理解していた「祝福の価値」というのは、本当にわずかなものであったと知りました。
多くの祝福子女がそうであるように、私も原理やみ言を幼いころから耳にたこができるほど、何度も聞きました。その中で「間違っているはずはない、これが真理だ」という確信はありましたが、本当の意味や喜びを心では理解できていなかったのです。
永遠に幸せが続くってどういうことなのだろう?
日本の美である「散りゆく美しさ」のほうがよいのでは?
祝福は葛藤と苦しみの始まりで、怨讐を永遠に愛し続けることなのだ。
そんな考えが頭の中にはありました。
つまり、創造原理を学んでいても、心に染み付いているのはこの世の価値観や蕩減復帰の内容であり、神様の願いや理想を心の底から理解できていませんでした。
「純潔」の大切さも頭には入っていましたが、その価値を本当の意味で知るのは祝福式のときでした。
永遠の相対に出会って初めて、相手に対して「ここまで純潔を守ってきてくれたんだなぁ。感謝だな」という思いと同時に、自分自身に対しても「ここまで純潔を守ってきて、本当によくやった」と、そう思えたのです。
そのときに、本当の意味で「純潔」の大切さと重みを知ることができました。
また、原理講義で幾度も耳にしていた、「神様は陽性と陰性とに分けられた」という言葉にも初めて感動しました。
それまでは、その内容に対して「へぇ、そうなんだ〜」という感情しか生まれませんでした。しかし、主体者に出会って、主体者と一緒にその話を聞いたとき、感動が生まれたのです。
この経験から、「原理やみ言は、学ぶだけではなく、実際に経験をしないと駄目だ」ということを身にしみて感じました。
「愛」と言っても、これは漠然とした言葉です。
愛というものは、言葉では理解しきれません。
父母の愛をどれほど説明したとしても、父母がいない人には理解できないのです。
夫婦の愛をどれほど説明したとしても、独身の人には理解することができません。
(『こころの四季5』P.19)
このみ言は、実際に味わわないと分からない世界なのだと強く感じます。
今の堕落世界で、子女の純潔を守り、祝福まで導くことはたやすいことではないかもしれません。
ですが、その峠を乗り越えたときに、父母にとっても子女にとっても、何より神様にとって本当の幸せが訪れると感じます。
私はまだスタートラインに立ったばかりで、今後の人生の道のりはまだ長いですが、「初心」と「感謝の気持ち」を忘れずに歩んでいきたいと思います。
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礼