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創世記第2章[7]
エデンの園の2本の木

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 失楽園の物語が何を意味しているのかについて解明するには、創世記23章に登場する主要なものが何なのかを、まず明らかにしなければなりません。19で述べているので詳細は省きますが、キリスト教は伝統的に生命の木をキリストと結びつけて解釈してきました。それは「統一原理」の「生命の木は個性完成したアダムである」という主張を裏付けています。

 幾つかの文献を紹介しておきます。

1)「古代キリスト教を通じて、十字架を生命の木とする解釈は一般的である。それは旧約において十字架の象徴であるアウグスティヌスはキリストを生命の木の果実と見なし、オリゲネスは、生命の木=十字架=キリストという等式を提出した(『現代思想』197911月号、青土社)

2)「生命の木これはキリスト教の伝統ではキリストの十字架と重ね合わされている」(P・ミルワード著『旧約聖書の智慧』講談社現代新書)

3)「ローマのサン・クレメンテ教会の…12世紀の半円蓋(はんえんがい)のモザイク(には)磔(はりつけ)にされたキリストと十字架の下にはアカンサスの木の根元があって緑豊かに茂っている。そこから左右に太い枝が力強く生え出で…いろいろな花が咲いたり実をつけたりして、画面いっぱいに広がっている。これは十字架のもとから生え出た『生命の木』、その豊かな生命力を表している」(和田幹男〈みきお〉著『私たちにとって聖書とは何なのか』女子パウロ会)

統一原理の解釈を証拠立てる聖句
 また、聖書の多くの個所で人間が一貫してさまざまな木に例えられていることも、「統一原理」が2本の木を「個性完成したアダム」「エバ」として解釈していることの妥当性を裏づけていると言えます。

 具体的に挙げると、「ヨセフは実を結ぶ若木」(創世記4922)。「イスラエルよ主が植えられた沈香樹のよう」(民数記24・5~6)。「わたしは神の家にある緑のオリブの木」(詩篇528)。「正しい者はなつめやしの木のように栄え」(同9212)。「あなたの妻は多くの実を結ぶぶどうの木のようであり」(同1283)。「正しい者の結ぶ実は命の木」(箴言1130)。「ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす」(イザヤ書276)。「彼らは義のかしの木ととなえられ」(同613)。「主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のよう」(エレミヤ書177)。「イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木」(ホセア書101)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ155)。「もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたが」(ロマ書1117)など、枚挙にいとまがありません。

 ちなみに「園の中央にはえさせられた」の「中央」とは地理的な位置を言っているのではなく、神が人間に「地を治めよ」と祝福された立場、つまり万物の主管者としての機能論的な位置を言っているのだと言えます。

真の家庭運動は創造本然へ復帰を目指す
(注)ところで、ある反対牧師は「2本の木が象徴なら、他の木は何だったのか(創世記29)」などと批判していますが、これは20および21で述べたように、創世記1章と2章が並行記事であることを考慮すればすぐ分かることです。

 1章の創造過程が、陸・海・空の「場の設定」植物の創造動物の創造男・女の人間の創造という順序になっているのと同様に、第2章でも、エデンの園という「場の設定」植物の創造動物の創造男の助け手としての女の創造という順序となっており、当然、エデンの園にも植物が生えていてしかるべきでしょう。

 従って、他の木とは樹木のことであると言えます。1章では、3日目に「実」を実らせる樹木が創造されていますが、人間も個性完成して「結実しなければならない」ことの意味を込め、神はエデンの園の中心人物である「個性完成したアダム」「エバ」を中央に生えた2本の木として例えたのだと言えます。

 さて、「統一原理」の観点から見た場合、最も重要なことは、神が「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手をつくろう」(218)と言われたみ言です。それを受けて224節に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となる」とあるように、男女が結婚し、一つに結ばれて家庭を築いていくことは、神が願われた理想世界の秩序です。

 イエス様もこの御言に基づいて「彼らはもはや、ふたりではなく一体である神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ196)と語っています。

 128節にも「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」とあって、神は子女繁殖に対して祝福しておられます。にもかかわらず堕落後では、創世記316節に「産みの苦しみを大いに増す」とあり、この言葉は、創造本然の基準から明確なずれが生じたことを暗示するものです。統一運動の推進する「真の家庭運動」は、その失われた創造本然の基準を回復することを目指した運動であると言えます。

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 次回は、「創世記第3章[1]蛇の正体」をお届けします。