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創世記第2章[3]
天地創造の順序

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 創世記2章を研究するにあたり、まず理解しておくべきことがあります。それは創世記24節~426節の文章は、11節~24節までの文章と、もともと異なった資料に基づいて成立している違った著者による文章だという点についてです。

 注意して読めばすぐ気付くことですが、創世記1章は「神」となっているのに対し、創世記2章~4章では「主」となっています。こういう違いが生じた理由は、原典であるヘブライ語聖書自体、創世記1章では神名がエロヒームであるのに対して、創世記2章~4章はヤハゥエとなっているためです(創世記51節から再びエロヒームになっています)。

1章では動物が先 2章では人間が先
 さらに天地創造の順序を1章と2章で比較してみると、そこに違いがあることに気付きます。1章では動物がつくられた後で人間がつくられているのに対し、2章ではまず男がつくられ、次に動物、最後に女がつくられています。

 この事実に注目したアストリュク(16841766)は、創世記1章と2章はそれぞれ別の著者による矛盾した天地創造の物語であるという、いわゆる二資料説を主張しました。それを契機に聖書批評学(高層批評)が進展し、聖書は神の啓示の書であるとするキリスト教信仰は大きな試練にさらされることとなりました。

 この批判的な観点に対し、信仰を立てようとする福音派は、24節「地と天とを」の言葉の順序に着目して「2章は、人間を中心としたエデンの園の描写である」と反論しています。

 この反論は「統一原理」的な観点に、より近づいているという意味で評価することはできますが、しかし前述した批判に対する十分な反論にはなっていません。なぜなら動物の創造に先立って男がつくられたのは、歴史的事実かどうか? という点についての明確な回答になっていないからです。

 さて『原理講論』に「神は未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された」(67ページ)「被造世界は個性を完成した人間の性相と形状を実体に展開したもの」(259ページ)とあるように、「統一原理」では、神は天地創造をするに際し、まず個性完成した人間を標本に、それを象徴化しながらさまざまな万物をつくっていかれたと見ています。それゆえに人間が被造世界の中心存在となっているのです。

(注)従って、神がエデンの園の「中央」に、命の木と善悪を知る木を生えさせられたという記述は、地理的な位置を言っているのではなく、まさに個性完成した人間こそが被造世界(天宙)の中心存在であるという機能論的な位置について述べているのだと言えるでしょう。

 そのような“創造の秩序”の観点から見れば、個性完成したアダムがまず最初に神によってつくられていたとも言い得るのです。だからこそ創世記2章では、男が先につくられたと表現されていると見ることができます。すでに8で論じたので、ここで再び詳述することは控えますが、ユダヤ教の聖書解釈では、創世記冒頭の「はじめに」という言葉をトーラー(律法)と結びつけ、それを創造原理(知慧=ロゴス)のことだとしています。第8回で論じた内容に基づいて整理すると、下図のようになります。

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順番の表記の狂いに根本的矛盾はない
 神は、個性完成した人間をまず念頭に置き、それを標本にしながら被造世界をつくっていかれたという「統一原理」の観点から整理するとき、創世記1章と2章との間には根本的な矛盾がないことが分かります。創世記1章はどちらかと言えば時間的順序(時系列)に重きを置いて描いているのに比べ、2章は創造の秩序(構想的な側面)から、個性完成した人間を中心に置いて創造を描き直しているのだと言えるでしょう。1章だけでは、人間を中心とする被造世界という側面が十分に描き切れないので、それを2章の文章が補っていると言えます。

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 次回は、「創世記第2章[4]12章は同時並列的内容」をお届けします。