2022.05.29 22:00
創世記第1章[3]
「汎神論」か「超越神」か
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
「はじめに神は天と地とを創造された」。ヘブライ語で7文字から構成される、この最初の一文を理解する者は聖書の全体を理解するといわれます。神こそが天地万物の創造者であるという、この明確な宣言によって、宇宙そのものを神と同一視する「汎(はん)神論」の考え方は退けられます。
無始無終(始めなく終わりもない)を説き、かつ人間や山川草木を神の一部として捉え、それらが集まって一つの巨大な有機体(宇宙の大生命)を形成しているとする汎神論に対して、万物を造られた神は、宇宙が存在する以前にすでに厳然と存在しておられた、という「超越神」の考え方が、キリスト教思想の特徴です。「統一原理」は、神が時間と空間を創造され、全ての存在の起源であり、天宙の創造者であるという超越神に立脚している理論です。
「ロゴスの完成実体」アダム、エバ
(注)ちなみに「天と地とを…」という場合、それを太陽・月などの地球以外の天体と、地球として捉えることもできますが、アウグスティヌスは「天」を天使の創造として解釈しています。『原理講論』に「神は天使世界を他のどの被造物よりも先に創造された」(106ページ)と主張されているように、「統一原理」の観点から見たとき、それを無形実体世界としての天使界と、有形実体世界としての地上界として捉えることが可能ですので、アウグスティヌスの解釈もそのような観点から見たとき、妥当であると言えるでしょう。
「はじめに」はヘブライ語でベレシートと言いますが、ユダヤ教の解釈ではこのベレシートという言葉を、神がモーセを通して与えた啓示である「トーラー(律法)」と結びつけて解釈しています。箴言8章22節に、「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた」とありますが、ここでいう“わたし”とは、宇宙の創造原理である知慧(ちえ)、すなわちトーラーのことであり、このトーラーによって神は被造世界を創造されたのだと考えています。
ヨハネ伝の冒頭に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた…」という有名なくだりがありますが、この文章も、実にユダヤ教のこうした思想を踏まえて書かれたものといわれており、キリスト教の解釈の場合、この知慧のことをキリストと同定してとらえ、キリスト先在説の根拠としています。
「統一原理」から見るとき、これらのユダヤ教やキリスト教の考え方を高く評価することができます。なぜなら『原理講論』には「神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである」(67ページ)と主張されているように、神は天地万物の創造を始めるにあたって、ロゴスの完成実体としての個性完成したアダムと個性完成したエバを――いわば理想世界の青写真のように――念頭において、創造のわざを始めていかれたのだというのです。
ですから個性完成したアダムとエバという“ロゴスの完成実体”が、まず最初に存在していた、と「統一原理」は見ています。したがってユダヤ教やキリスト教の解釈は「統一原理」と相通じると言えるでしょう。
創世記の冒頭に四つの解釈
ところで、聖書解釈で問題となるのは、創世記の冒頭の文章にはいくつかの違う訳が可能であるということです。実はヘブライ語原典を見ると、冒頭の文章は四通りもの読み方ができるのです。この点についてカレン・アームストロングはその著書『楽園を遠く離れて』(柏書房)の中で、次のように指摘しています。
「『創世記』の最初の文はしばしば次のように翻訳されてきた。『初めに神は天と地を創造された』と。この伝統的な翻訳は、神がわれわれの世界を無から創造したという教義――それは今ではすべての唯一神教の信徒たちの教義なのだが――を明瞭に述べているように思われる。つまり、原初には神のほかにはいかなる物質も存在していなかったという教義である。だがエヴェレット・フォックスは、この文は次のようにも訳せることを指摘している。“神による天地創造の始めに、――その時、地は荒涼たる荒れ地(トーフー・ウァー・ウォーフー)であって、暗闇が大洋を覆い、大水の上に神の息が舞っていたのだが――、神は言った、『光あれ!』と。”『新改訂標準版』(NRSV)も、この節のこうした解釈を採択している。しかし、この読み方は、創造の過程についての非常に違った見解を提示している。神は世界を無から作ったのではない。荒涼たるカオスと原初の海がすでに存在していたのであり、神は『トーフー・ウァー・ウォーフー』に秩序を押し付けたにすぎないからである。この制御しにくい物質が宇宙の原料として用いられたのだ。どちらの読み方が正しいのかという問題は、結局解決されえないのかもしれない」(22~23ページ)
「統一原理」はこの解釈の問題をどう解決しているのでしょうか。
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次回は、「創世記第1章[4]創造の二段構造」をお届けします。