https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4099

創世記第3章[1
蛇の正体

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 失楽園に登場する蛇は何を意味するのでしょうか。伝統的なユダヤ・キリスト教の聖書解釈では、蛇をサタンと結びつけて解釈してきました。

 その解釈をいくつか紹介しますと、パゼット・ウィルクスは「罪の源は蛇の形に隠されているけれども、新約全書に対照すれば蛇はサタンの型であるに相違ない(コリント後113、黙129)。さればこの章の『蛇』をサタンすなわち悪魔とすべきは明瞭である」と主張し、また坂野慧吉(さかの・けいきち)氏も「主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾から第一に『蛇』は主によって造られた被造物であることが分かる。第二にこの蛇が女に語りかけているところから、単なる普通の蛇ではないこの蛇は聖書の他の箇所からサタンであると考えられる(ロマ1620、コリント後1114、黙129、同202)」と述べています。

サタンの別称はよこしまの意
(注)ちなみに批評学的立場の学者は「サタンの概念は創世記の時代にはまだ発達しておらず、故に蛇をサタンに結びつけることはできない」と主張しています。しかし、だからと言ってユダヤ・キリスト教の伝統的解釈を退けることはできません。

 有用な反論として金永雲(キム・ヨンウン)女史は次のように主張しています。

 「サタンの概念は中間時代のユダヤ思想において発展し、洗練されたことを多くの聖書学者たちが指摘する。ヘブライ人たちの神の概念も同様であった。神の真の本質が漸次的に啓示されてきたと見るのが妥当であるなら、堕落した天使に関する人間の理解も徐々に明確になってきた、と認識するのも妥当なことである。神についてより多くを知れば神に敵する存在の本質をも、より明確に理解することができる」

 さて創世記31節の蛇はヘブライ語で「ナハシュ」といいます。イムマヌエル綜合伝道団刊『旧新約聖書通覧』は「蛇の原語は『光る者』の意」と説明しており、内村鑑三も「蛇の原語ナカシュは、その字義よりすれば『光るもの』の意であるその注解を得んと欲すればコリント後書1114節を見よ。『サタンも自ら光明(ひかり)の使のかたちに変ずるなり』と。アダムとエバとの前に現れたる蛇すなわちナカシュは、光の使のかたちに変じたるサタンである光るものすなわちサタンがナカシュのかたちをもって現れた」と述べています。

 オックスフォードの『A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament 』も、ヘブライ語のナハシュには「光る」という意味があると述べ、エズラ記827節を参照に挙げています。従って蛇とは本来、光り輝いていたものが堕落しサタンとなってしまった存在すなわち天使長であると見るのがより正確な解釈であると言えます。

 サタンの別称に「ベリアル」(コリント後615)がありますが、ベリアルとはサムエル記上212節の「よこしま」の意であり、デイヴィッド・スパーリングは、それが「光無き者」という言葉の語呂合わせに由来する名称であるとしています。まさに光る者が堕落し「光無き者」としてのサタンとなったことを、それは暗示すると言えるでしょう。

 以上のことから蛇とは天使長ルーシェルのことだとする「統一原理」の解釈は極めて的を射た解釈であると言えます。

年を経た蛇は巨大な龍 再臨主は神側に立つ龍
 ところで「光る者」であった天使長に対し、第二アダムであるイエス様も「私は光である」と証言しています(ヨハネ伝1246)。また天使長が「蛇」であるなら、イエス様も民数記21章の「青銅の蛇」であると自ら示唆しています(ヨハネ伝314)。

 さらにルカ伝1018節「サタンが電光のように天から落ちるのを見た」の聖句と照合してイザヤ書1412節「明けの明星(ルシファー)」とサタンとが同一視されるようになりましたが、サタンが「明けの明星」であるならイエス様も「明けの明星」だと聖書は記しています(黙2216)。

 そして黙示録129節には、年を経た蛇のサタンが「巨大な龍」として述べられています。ならば再臨主はその「巨大な龍」に対し、神側に立つ「龍」として形容されて然るべきではないかと思います。浅見定雄氏は「(龍とは)統一教会の教えではサタン(悪魔)のこと文鮮明は自分の教えのために自分の本名を名乗りにくいという奇妙な結果を招いている」などと、いいかげんなことを思いつくままに述べています。

 しかし真のお父様(文鮮明総裁)の本名が「龍明」であったこと自体がむしろ再臨主であることを実証しているように思われます。

 なお真のお父様が名前を変えられた理由は、親戚より以上に36家庭を愛する基準を立てるため、親族に所在を気付かれないための配慮であったとみ言で明らかにしておられます(1983.8.19)

---

 次回は、「創世記第3章[2]失楽園の解釈」をお届けします。