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創世記第3章[2]
失楽園の解釈

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 失楽園に対するユダヤ・キリスト教の伝統的な聖書解釈では、そこに性の問題を絡めて解釈してきました。例えば、金永雲(キム・ヨンウン)著『統一神学』や同著『Unification Theology Christian Thought』に詳しく取り上げられていますが、古代ユダヤ教のラビ(律法の教師)はその罪を性的なものとして解釈していました。

 2世紀のラビ・ナタンは「悪い蛇は心の中でこう思った。自分はアダムを堕落させることはできないから、エバのところに行って彼女を堕落させてやろう。彼は行って彼女の傍らに座り、彼女と多くの話をした。…その時、蛇は何を計画したか。行ってアダムを殺し、この妻と結婚しよう。そうすれば自分は全世界に対する王となり、誇らしげに歩き回り、王としての快楽を楽しむことになるであろうということであった」と述べています。

カトリックも罪を性的なものと見る
 また、初代キリスト教も同様に、失楽園を性的に解釈しており、特に使徒時代からアウグスティヌスまでの400年間はもっぱら独身主義や禁欲主義の賛否を巡って論争が展開され、それは失楽園の物語や創世記224節の「それで人はその父母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」およびパウロの意見「未婚者たちとやもめたちとに言うが、私のようにひとりでおれば、それが一番よい。しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい」(コリント前78)をどう解釈するのかを巡って論争されたものでした。

 詳しくはE・ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』(ヨルダン社)に論じられていますので次回はその概要を説明したいと思いますが、カトリックも、アダムとエバの犯した罪を性的なものとして解釈してきました。

 現代においても、カトリック司祭P・ミルワードは「アダムとエバの罪が禁断の実を食べたという暴食だったと説明するのはあたらない。いろいろな点を勘案すると、これは聖書にいう『肉体の知識』(すなわち性交)の木の実を取って食べる性的欲望の罪をさしているように思われる。第一に、男と女としてのアダム対エバという明らかな関係がある。つぎに、彼らは裸だったばかりでなく、その実を食べるまでは裸であることを知らなかったという事実がある。第三に、蛇がエバをそそのかし、好奇心に訴えるやり口には暗に性的な歓びを語っている」(『旧約聖書の智慧』講談社現代新書)と主張しています。

 また、カトリック系出版社ドン・ボスコ社刊の『禁断の木の実』(A・ローテル訳)は「人祖にはただ一本の禁断の木が植えられてあっただけですが、私たち現代の人間の周囲は、ごらんの通り禁断の木ばかりの世界なのです。昔楽園にあった木に特別よく似た一種の木があり、それが強烈な魅力をもって若い青年男女をひきつけています。その禁断の木とは、すなわち、正しくない恋愛、これをさしている」と主張しています。

「果実を食べるとは性行為の婉曲(えんきょく)表現」
 さらには、注目すべき解釈として、現代における聖書批評学の立場からの聖書解釈があります。すなわち、失楽園の書かれた歴史的背景を考慮し、当時のカナン人やバビロニアの神話および考古学的文献などを検討することによって、創世記第3章に性的意味のあることが主張されるようになりました。

 『カトリック聖書新注解書』(エンデルレ書店)は次のように解説しています。

 「蛇は、パレスチナにおけるカナン人の宗教において、セム族の諸宗教におけると同様に、性の象徴であった。蛇は、カナン人によって、神バアルおよび女神アシェラ(共に多産の神)と関連づけられていた。『善悪の知識』は道徳全般に関するものであったが、性的知識に関連づけて使われている(申139、サム下1935)。『禁断の実』を食べることは、女神アシェラの礼拝の際に行なわれた『ぶどう菓子』を食べる(ホセア31)のと同様に性に関連したことを思い起こさせた」と。

 ――この聖書批評学の立場からの解釈については、A・ウィルソン氏の『創世記第三章における性的解釈』(「ファミリー」19905月号~10月号連載)や、魚谷俊輔著『神学論争と統一原理の世界』(光言社)において論じられていますので参照のこと――

 また、聖書神話に対する精神分析的な解釈に、次のような主張もあります。

 「ルドヴィッヒ・レヴィによれば、堕落物語は禁じられた性交の象徴的表現である。りんごは女の乳房を意味し、果実を食べることは性行為の婉曲な表現であるサタンがエバと性交したのは蛇の姿をしてであったのだから、ヘブライの伝統それ自体、蛇の男根的意味を知っていたと、ローハイムは指摘する。食べることは、もちろん性交の婉曲法で、土は母の象徴である。ローハイムは、蛇が腹這(はらば)いし、塵(ちり)を食べるのは性交を意味するという解釈をつけ加える。蛇と女たちの種子とのあいだの敵意についての聖書の文章は『蛇に対するものだけでなく、女に対する蛇(男根)をも意味している』」(『現代思想』197911月号)。

 西山清著『聖書神話の解読』(中公新書)も、失楽園には性的意味があるという同様の解釈を行っています。

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 次回は、「創世記第3章[3]カトリックの失楽園解釈」をお届けします。