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創世記第3章[3]
カトリックの失楽園解釈

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 堕落論をどう解釈するかという問題は、救済論の構造と密接に関係してきます。つまり、「どのように罪が発生したか?」の解釈によって、では「どうすることがより神の願いに近く、罪を犯さないことか?」、また「救われるにはどうすべきか?」ということが決定されるからです。実は2000年の伝統を持つカトリックの信仰生活の在り方を見ると、キリスト教が堕落論をどのように解釈してきたかが分かります。ローマ教皇をはじめとするカトリックの聖職者たちは生涯を独身主義で過ごしています。それは結婚しないでいることがより神の願いに近いと考えているからです。

パウロは結婚に消極的な見解持つ
 また、結婚する一般信者の場合には、必ずや教会の執り行う結婚式に参加し、聖職者から「罪の赦(ゆる)しの秘蹟(ひせき:サクラメント)」を受けなければなりません。

 つまり、教会から秘蹟を受けることで、初めて罪の赦し(救いの恵み)を受けると考えているからです。

 パウロの時代からアウグスティヌスまでの約400年間は、もっぱら独身主義や禁欲主義の賛否を巡って神学論争が展開されました。その論争の歴史については、E・ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』(ヨルダン社)に詳しく紹介されていますので、それを参考にされることをお勧めいたします。

 創世記128節に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という神の祝福が述べられ、創世記224節には結婚賛歌といわれる「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」という聖句があります。

 これらの聖句は、神が結婚を祝福していると受け取れますが、ところがパウロは、コリント人への第一の手紙の第7章において「未婚者たちとやもめたちとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい」「今からは妻のある者はないもののように…すべきである」「相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい」など、結婚に対して消極的な見解を述べるとともに、独身主義を奨励しています。

 さらにパウロは、コリント人への第二の手紙の第11章で「あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。ただ恐れるのは、エバがへびの悪だくみで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである」と述べています。

 ペイゲルスは、このパウロの主張が初代教会に与えた影響を次のように述べています。

 「次の世代のあるキリスト教徒たちは、彼(パウロ)の言葉を字義通り、独身主義の命令とみなした」(『前掲書』63ページ)と。

カトリックは聖職者の独身制を確立
 以上のようなパウロの主張をどう理解すればよいか、という問題とからめて、失楽園を「性的」に捉えるという聖書解釈が生まれていきました。

 例えば、タティアノス(120頃~?)は「アダムとエバは禁断の木の実を食べた後、性的に目覚めた結婚を考案したという咎(とが)のゆえに神は違反者であるアダムとエバを楽園から追放した」(『前掲書』81ページ)と解釈し、禁欲や独身主義こそが人間の本来あるべき姿だと考えました。

 それに対して、クレメンス(140頃~211頃)やエイレナイオス(130頃~200頃)は、結婚とは神の定めた神聖な秩序であり、性交は創造のわざにおいて神と共働(きょうどう)することであると反論しました。そして原罪はあくまで神の戒めに対する不従順だとしたのです。

 けれどもクレメンスらの行った聖書解釈にしてもそこに性的要素が含まれており、アダムとエバは不従順の罪によって、父なる神の祝福を待たず、未成年期に性的合一に至ってしまったのだと解釈しました(『前掲書』8283ページ)。

 やがてヒエロニムス(347419)やアウグスティヌス(354430)の時代になると禁欲主義が推奨され、独身生活こそ、本来の神が意図された人間のあるべき姿だと考えられるようになりました。聖書に詳しいヒエロニムスは、創世記224節の「結婚賛歌」が失楽園(創世記3章)の後にくるべき聖句であると解釈し、堕落前の人間は純潔であったと主張しました。

 また、アウグスティヌスは原罪と性欲を同一視する解釈を行い、この性欲を媒体に罪が全人類に及んでいると考えました。

 このような解釈の流れを受けて、カトリック教会は、独身主義がより神の願いに近いと考えて聖職者の独身制を確立していきました。

 今日でも、教皇の回勅(かいちょく)によって、結婚よりも童貞でいることの方が優れていると論じられ、独身制の重要性が再確認されています。独身主義を除いて、カトリックは「堕落に性的要素が含まれる」と解釈している点において、「統一原理」に類似すると言えます。

(注)回勅とはローマ教皇が全世界の信徒へ伝えたカトリック教会の最高指針のこと。

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 次回は、「創世記第3章[4]失楽園解釈と結婚観」をお届けします。