2022.09.11 22:00
創世記第2章[6]
人間の霊肉二重体構造
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
創世記2章7節「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」を「統一原理」の観点から見るとき、人間が“肉身”と“霊人体”の二重体の存在として創造されていることを言い表した聖句であると解釈できます。「命の息」はヘブライ語で「ニシュマット・ハイーム」といい、この言葉は動物の創造に際しては使用されていない言葉です。
C・T・フリッチは「2・19において、神が野の獣と空の鳥とを造られた時、神が命の息を彼らに吹きいれられたとは筆者が言っていないことは、注目すべき大切なことである。それは人間と動物との間に区別のあることを示している」と主張しています。
人間は肉身と霊人体の二重体
また、矢内原忠雄(やないはら・ただお)氏も「人が土に親しむのは、人が土から造られたからである。しかしそれだけでは未だ人にはならない。…神がこれに生命の気を吹き入れ給うたことによって、人は初めて生霊(いけるもの)となったのである。この生命が如何に特別なものであるかは、同じく土をもって造られたすべての獣と鳥とは、生命の気を吹き入れられなかった事によって知られる(2・19参照)。…人に吹き入れ給うた生命の気とは、単なる生物としての生命ではなく、神御自身の生命と共通なる性質をもつ生気である。…人は死してその体は土に帰るけれども、その霊は天に昇って神の懐(ふところ)に帰る」と述べています。
それに対して、月本昭男(つきもと・あきお)氏は「『いのちの息吹』は肉体に対する『霊』を指すのではない。ここに霊肉二元論は前提されてはいない。創世記7章22節によれば、同じく土をもって造られる人間以外の動物もまた、その鼻に『いのちの息吹』を吹きいれられたのである」と主張しており、R・デヴィドソンも「創世記2・19によれば、野の獣と鳥もまた土から形造られており、創世記7・22では、命の息は、人間と同じように、鳥、家畜、獣、這うものといった全被造物にもある」と述べています。
確かに7章22節「鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ」には、ニシュマット・ハイーム(命の息)という言葉が出てきますが、月本昭男氏らが見落としている重要な点は、創世記がJ資料やP資料などを合成したものだという点です。2章7節はJ資料であり、同じ言葉が登場する7章22節も同じJ資料であることを踏まえておくべきです。
原語を分析すれば統一思想を裏づけ
そもそも洪水審判の目的は、同じJ資料の6章6~7節に「主は地の上に人を造ったのを悔いて…『わたしが創造した人を地の面からぬぐい去ろう…』」とあるとおり人間を滅ぼすことです。
続く6章7節の「地の面からぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも」をヘブライ語原典で読み比べると、7章23節の「地の面にいた…人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られ」と同じ文章となっています。
このJ資料の文脈の流れ(文章構成)から見た場合、前文の7章22節で登場する論点となる「命の息のあるもの」が人間を指していることは明瞭だと言わねばなりません。
もし動物にも人間と同じ「命の息」があるとJ資料の著者が考えているなら、創世記2章19節においてすでに明確に述べられているはずです。いずれにせよこの解釈の問題に関して言えば、月本氏およびデヴィドソンよりもフリッチや矢内原氏の方に分があると言えるでしょう。
また2章7節の「人は生きた者となった」という聖句の「生きた者」はヘブライ語でネフェシュ・ハヤー(生きている魂)といい、この言葉は1章20節、24節など動物の創造に際しても使用されている言葉です(日本語は「生き物」と訳している)。
しかし植物の創造に際しては、ネフェシュ・ハヤーは使用されていません。以上のように原語を分析すると、これらの言葉の使い分けは「統一思想」が主張している「存在者の性形の階層的構造」を裏づけるものであると解釈することもできます。
---
次回は、「創世記第2章[7]エデンの園の2本の木」をお届けします。