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創世記第2章[5]
創世記の成り立ち

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 創世記は幾つかの資料を寄せ集めて編集されています。11節から24節までが神名をエロヒームとする一つの集まり(P資料)であり、24節から426節までが神名をヤハゥエとする一つの集まり(J資料)となっています。

 そして5章は(29節を除き)再びP資料の集まりとなっています。さらに61節からはJ資料となり、以後、複雑な資料の組み合わせによる洪水物語、バベルの塔、アブラハム・ヤコブ・ヨセフなどの族長物語へと話が連なっていきます。このように創世記は明らかに違ったさまざまな資料を組み合わせながら一つの書物として編集されているために、神名の違いばかりでなく、記述内容に矛盾や重複した個所があったりします。

創世記は数個の資料からできている
 この点についてCT・フリッチは次のように述べています。「創世記本文の注意深い研究は、この書物が長い年月にわたって書かれた数個の違った文書資料が、複雑に入り組んだものであることを指摘している注意深い読者は、創世記の物語の中にある多くの矛盾に気づくだろう。たとえばアブラハムは百歳の時に息子をもつという考えを笑っている(1717)。しかるに2516によれば、サラの死後彼はもう一人の妻ケトラをもち、彼女によって子供たちをもうけている。ヤコブがエサウから身をさけた時、イサクはおよそ百歳であり死にかかっている(2741)。しかるに3528によれば、イサクは180歳になるまで生きているこれらの難点や矛盾は、創世記が数個の文書資料からなっていると仮定することによって、もっともよく説明されうる、ということが今日ほとんどの学者に信じられている」と。

 キリスト教は、創世記のこのような問題点に対して、それは複数の資料を組み合わせて編集された結果生じてしまった現象であると説明します。では神様はなぜ神名を違えたりしてまでも、あえてこんなに目立つ形で異なる資料を寄せ集め、一つの書物にしておく必要性があったのか? その疑問にはなかなか答えられません。

 その摂理的な意味について「統一原理」の観点からは次のように解釈することが可能です。

 『原理講論』の予定論に「『み旨』は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的である」(243ページ)とあるように、神が最初にアダムとエバに願われた創造理想を実現するというみ旨は絶対ですが、しかしそのみ旨をいつ果たせるかは人間の責任分担に関わる問題なので、その展開に応じて、創世記を何度も編纂(へんさん)し直す必要があったのであり、その事実(摂理的経過)を人間に明確に教えるためにあえてそのようにしたと説明することができます。

 そもそもアダムとエバが神の戒めを守って堕落しなければ創世記3章以降は不必要だったのであり、またアダム家庭においてアベルとカインが一体化すれば違った摂理が展開していたし、救済摂理は4章までで終わっていたことでしょう。そのことはノア家庭、アブラハム家庭でも同様のことが言えます。

 結局「み旨は絶対、しかしみ旨成就は相対的」という原理があるために――これを統一史観では「責任分担論」といいます(『統一思想要綱〈頭翼思想〉』326ページ)――結果として、創世記が現在のような資料の寄せ集めの形式となってしまったということが言えます。

復帰摂理の原型は「アダム家庭」に存在
 従って、復帰摂理路程のいわば“原型”のようなものは、すでにアダム家庭の摂理の中に存在しているのであり、結局、アダム家庭で成せなかったことをノア家庭で成そうとしたのであり、アダム・ノア家庭で成せなかったことをアブラハム家庭で成そうとして摂理が展開されていったというのです。確かに創世記の全体像を見渡せば、アダム家庭と類似した摂理が繰り返されていることに気付かされます。

 例えば、神が兄カインより弟アベルを顧みたように、イシマエルより弟イサク、エサウより弟ヤコブ、兄たちより弟ヨセフ、ゼラより弟ペレヅ、マナセより弟エフライム…いつも弟が恵みを受けています。カレン・アームストロングは『楽園を遠く離れて』(柏書房)の中で、常に神は兄よりも弟を選ぶ、それは依怙贔屓(えこひいき)にほかならないとして批判的に論じているくらいです。

 またアダムは肉身を赤い土(アダマー)から造られたことから名をアダムといいますが――先に肉身が造られた後で命の息が吹き入れられた――それと同様に、先に生まれた兄エサウは全身が赤く、別名アドム(赤い)と呼ばれ、兄ゼラは真っ赤という意味の名です。このような類似性が創世記に繰り返されている事実は、矢内原忠雄(やないはら・ただお)氏も指摘しています(『聖書講義・創世記』)。

 さらに何よりも重要な類似性は、創世記全体が、エジプト苦役からイエス様までのイスラエル史2000年、およびイエス様から現代までのキリスト教史2000年と類似する様相で展開している点です。このように「統一原理」の観点から創世記を読み解くと、非常に面白い事実が見えてきます。

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 次回は、「創世記第2章[6]人間の霊肉二重体構造」をお届けします。