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2014年05月24日

【応答話法例文集】 vol.7 人間は不完全であるが故に人間らしい

Q:新約聖書のマタイによる福音書五章四八節に「あなたがたの天の父(神)が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とありますが、人間ははたして完全な全き存在(人格者)になれるのでしょうか。私にはとてもむずかしいことのように思えます。むしろ人間は不完全であるが故に人間らしさがあるのではないか、そのほうが魅力的なのではないかとさえ思うのですが……。

A:「完全」という言葉を考えてみるとき、あらゆる点から見て非のうちどころのない完璧な人間というふうに考えがちですが、神様は、全ての人間を、それぞれが最高の価値を持った存在として造られました。全ての人が性格も異なり、持ち味も異なるように造られているのです。

ですから「完全」といっても、それは「完璧」という意味ではなく、「完成」という意味で考えるが適当です。「完成」という状態では、個性の違いが自分自身を傷つけることも、また他人を傷つけることもなくなり、むしろ個性を十分に発揮すればするほど、他人を喜ばせ、そして自分自身をも満足させることができるようになるのです。

この「完成」した状態というのは、それぞれ個性が違っても、人間としての共通の原点に立つことです。つまり、上記の聖句にあるように、神様と同じ立場で物事を見つめ、考え、感じ、行動できるようになることなのです。

例えばスポーツを考えてみましょう。

対戦する両チームが競技のルールを守った上で、それぞれの持ち味を発揮すれば、そのゲームはきちんと成立し、正しく勝敗を決することができます。見ている人たちも、選手たちの一挙手一投足に一喜一憂しながら楽しむことができます。

しかし、お互いにルールを無視して行動すれば、いくら個性を発揮しても、勝利を勝ち取るどころか、ゲーム自体が成り立たなくなってしまいます。これを見ている観客がはたして「ルールを無視するからおもしろい」と言うでしょうか? かえって不愉快な思いをするに違いありません。

「人間は不完全であるが故に人間らしい」という考えは、人間の完全な状態、つまり完成した状態を知らないがゆえに生じてくるものなのではないでしょうか。今の不完全な状態よりもはるかに魅力的な状態があることを本当に理解すれば、現状から脱してその状態を目指そうとするのが人間の本性でしょう。

【応答話法例文集】の活用法と注意点についてはこちら

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