今号から、全国各教会での牧会者の説教を紹介する「孝情礼拝」のコーナーが始まりました!
今回は、南東京エリア渋谷家庭教会の渡邊・大教会長による説教です(24〜31p)。
その一部を、ご紹介します。
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■信仰と精誠
きょうは「精誠」について皆様と考える時間を持ちたいと思います。
「精誠」という言葉の定義を辞書で調べると、「混じりけのない真心、また純粋な誠実さ」と出てきます。現在、日本語では、精誠という言葉はほぼ使いません。昔の言葉のようです。
韓国に行くと、精誠という言葉を現在も日常的に使います。仁川空港の地下の韓国レストランには、壁に大きな文字で「精誠」と書いてありますね。
私たちは「精誠」と聞くと宗教の言葉のように感じますが、違うのです。料理を作るのも、やっぱり精誠なのです。「私たちは、精誠を込めてキムチを漬けましたよ」と言います。
私たちの信仰の中でも、やはり殊さらに精誠が強調されています。皆様も、信仰の歩みの中で、〝精誠が実った〟という実感を持たれたことも多いと思います。
精誠というものは、実際の生活とつながっているものです。そして、真の父母様も精誠の重要性を強調されます。
復帰摂理を見ると、中心人物たちは皆、すべからく精誠を尽くし、その中で神と出会っていきました。
きょうは精誠をテーマに、まずアブラハムについて見ていきたいと思います。
■象徴献祭の失敗
アブラハムが、なぜ象徴献祭に失敗したのかについて、考えてみたいと思います。
神様はアブラハムを召命されるときに〝あなたの子孫を星の数ほどに増やす〟という約束をされました。なぜそのような約束をされたのかというと、アブラハムが、子供がいないことで悩んでいることを知っていたからです。
そしてまたアブラハム自身が、信仰の祖となって、彼から民族が興っていかなければならないということを、神様は予定をされていたからです。
私はあなたの悩みを全て分かっている、そのうえでおまえを召し出しているのだ、ということを理解させるために、わざわざ〝星の数ほどに増やす〟ということを強調されたわけです。
アブラハム自身の願いにまで神様が下りてきて、そしてアブラハムの目線に立って、私は全部分かっているということをあえて語って、そのうえで、彼をより貴い、彼自身の本当の使命の立場に引き上げていこうとされたわけです。神様がアブラハムに侍られたということです。
それに対してアブラハムはどうだったでしょうか。アブラハムは中心人物として召命されるほどに正しい人間でした。そして、子がいないという悩みを神様が聞き入れてくださるという喜びの中で、彼は召命を受け入れていったわけです。
これは神様がそう語られたので、アブラハムとしては正しい反応ですね。しかし、アブラハムは神様の願いに思いをはせる必要がありました。「神様が私をそのように用いていく理由は何であろうか」と。
しかし、彼はそこまで深く考えることができなかったのではないかと思うのです。神様が子供を下さる約束をしてくださったので、「供え物を捧げよ」という願いに応えようとしましたが、そこで彼は神の真意を考えることができなかったのです。神様の目線にまで上がろうと努力することなく、小さなはとを裂かないという結果に終わってしまいました。
▲神にひとり息子のイサクを捧げようとするアブラハムとそれをとどめる天使(『創世記』第22章)。(ロラン・ドゥ・ラ・イール画、1650。オルレアン美術館)
結果的にこれが失敗となりました。要するに精誠の不足があり、それが失敗につながったというのです。だからこそ私たちは、精誠を怠ってはいけないという教訓を学ぶことになります。
このアブラハムのエピソードと対比して、ある祝福家庭の証しをしたいと思います。15年ほど前に聞いた、ある先輩家庭の証しです。
私はこの証しを通じて、「精誠」について大変、考えさせられました。
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