2月、ある水曜日の夜のことです。
帰宅してくつろいでいると、「何で缶を捨てたの!」と、妻の怒り声が飛んできました。
〝えっ、どういうこと?〟。
私は事情がよく理解できませんでした。
確かに、その日は資源ごみの日で、ごみ出しを日課にしている私は、朝、ごみ箱に入っていた缶や、まとめてあった紙類を捨てていました。
〝何が問題なの? 感謝されこそすれ、非難される筋合いはないだろう!〟。
私の中で何かスイッチが入りました。
妻は、子供の学校で空き缶が必要なので、「きれいに洗って乾かし、ごみ箱に保管してあった」と言いました。
「捨てないでね」とも言われていないし、袋に注意書きがあったのでもありません。にもかかわらず、まるで〝罪人〟扱いです。
「どうするの!」と責められ、「はぁー」というため息は、耳にまとわりつきました。
私は自意識過剰なのだと思います。人から非難されるのがとても苦手で、そんな状況を放っておくことができません。
「もう、それ以上、何も言わないで! 缶を拾ってくるから」と言って、家を飛び出しました。
〝どうするか……〟。
私は、近所のスーパーでごみの分別回収をしていたのを思い出し、自転車を飛ばしました。
店員さんに、「娘の学校で空き缶が必要なので頂けないでしょうか?」とお願いすると、快く分けてくれました。
ただ、前日に捨てたばかりで数が足りません。私はもう一軒、ディスカウントストアを訪ねました。
冷たい風を突っ切って疾走する自転車のかごで、缶はカラカラと音を立てました。
〝意地を張って、ばかだよなあ。何でこんなことになるんだよ〟
そのとき、北谷真雄先生の証しの内容が頭をよぎりました。
「私が悪いことをしたわけではないのに、なぜ、周りから否定されたり、つらい立場に立たされたりするのか。そのような疑問も、蕩減の観点から全て整理することができます」(『世界家庭』2025年2月号78ページ)
〝こんなしょうもないことでも、何か蕩減できることがあるのなら、感謝かな……〟
水道で缶をきれいに水洗いし、かじかむ手をこすりながら家に入ると、妻は、まだ怒っているのか、申し訳なくて気まずいのか、一言も発しませんでした。
その夜更けに不思議な夢を見ました。私はなぜか、バスケットボールを大切にしています。
そのボールが、雨で増水した川の濁流にどんどん流されていくのです。
私は川に飛び込み、ボールを必死に追いかけましたが、つかみとることができませんでした。
私は涙を流しながら、目覚めました。
次の日、仕事から帰ると、妻から、「自転車の鍵が折れ、鍵穴がふさがってバッテリーが取れない。充電できないから、何とかしてもらえる?」と言われました。
マイナスドライバーや千枚通しで何とかしようとしたものの、うまくいかず、手にけがをしたということでした。
外に出て自転車を見てみると、悪戦苦闘を物語る傷跡が残っています。
〝これは厳しいか……〟。
とりあえず、鍵穴に潤滑油をさし、マイナスドライバーを押し当てて回すと、かぎは、あっけなく開きました。
まさかの展開に驚きつつ、バッテリーを取りはずし、折れた鍵も取り除くことができました。
妻は、あっという間に問題が解決したので、「うそでしょ。天才じゃないの」と言って喜びました。
〝罪人〟は〝救い主〟になりました。
せっかくだからと、こぐとギーギー、カタカタと鳴るチェーンに潤滑油をさし、タイヤに空気を入れました。
10年以上乗られた妻の愛車は、タイヤの溝が浅く、裂けたサドルには100均で買ったカバーがしてあります。
雨の日に、かっぱを着てパートに出かける妻の姿が思い浮かびました。
〝いつも家族のために頑張ってくれて、ありがとう〟
妻はしばらく、教会から足が遠のいています。その胸には、さまざまな思いが詰まっているようです。
もしかして、あの夢のボールは、妻の心を表していたのでしょうか?
折れた鍵は、妻の心の扉を開く鍵が何か考えるように訴えていたのでしょうか?
私は、神様の意図が知りたいです。
心の扉。自分の扉も、相手の扉も、開くことは簡単ではありません。本当は、お互いに開け放って一つになりたいのに。
きっと、目には見えない蕩減もあるのでしょう。
全ての祝福家庭の夫婦、親子、兄弟姉妹の心の扉が開放されますように。そのために鍵が必要なら見つかりますように。
そして、神様の愛のもとで、皆が一つになった喜びを味わえることを、ただ願っています。