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2014年04月24日

『原理講論』語句解説24 摂理的同時性から見た復帰摂理歴史と復帰摂理延長時代③

『原理講論』には難しい言葉が使われている箇所が多くあります。そのため、意味がつかめなかったり、文脈からしてこうではないかと推測するものの、違った意味に捉えてしまうようなこともあります。そこで、難しい言葉に解説を加えてみました。

[ ]の中は、『原理講論』のページ数と、行数を示しています。一つの言葉に、二つ以上の意味がある場合、『原理講論』で使われている意味のほうに☆印をつけました。反対語は⇔で、参照は→で示してあります。

<摂理的同時性から見た復帰摂理歴史と復帰摂理延長時代③>

[479-14]エホヤキム王(おう)

ユダの王(在位:前609〜598)。ヨシヤの第二子、母はヨバテの近くにあるガリラヤの町ルマに住むペダヤの娘、ゼビダといった。

[479-14]ダニエル

ダニエル書の主人公。ダニエル書第1章1〜6節によれば、ネブカデネザルによって捕囚とされたユダヤの青年貴族の一人。

[479-14]工匠(こうしょう)

細工・工作を職業とする人。

[480-2]クロス王(おう)

キュロス二世とも。前600頃〜529。古代ペルシャのアカイメネス王朝の王(在位:前558〜592)。クロスからペルシャ帝国が始まり、アレクサンダー大王の到来に至るまで続いた。ネブカデネザルの死後七年たってナボニドスがバビロンの王となった(前556)。その時既にイランの高地において、ペルシャが征服計画を進めていた。ナボニドスを攻めてバビロンを陥れ、新バビロニアを滅ぼした。ついでキリキアからフェニキア(シリア)にかけての諸部族を服従させ、バビロニア捕囚中のユダヤ人を解放、またギリシャ諸市の僭主政治を助けた。こうしてエジプトを除くオリエント世界はことごとくペルシャ領となり、強大なペルシャ帝国が出現した。

[480-8]ボニファキウス八世(はっせい)

ボニファティウス八世とも(1234頃〜1303)。教皇(在位:1294〜1303)。イタリアのアナーニに生まれ、トーディ、スポレトで学び、パリおよび聖ピエトロ大聖堂のキャノン、教皇庁に入り、枢機卿、フランスおよびシチリアへの教皇特使等の要職を歴任したのち、教皇に選ばれた。聡明で多方面の才能にも恵まれ、実行力にも富んでいたが、また狡猾で世俗欲も旺盛であった。教皇権はあらゆる世俗権に優先するという思想に基づいて、教皇権の高揚につとめ、そのためには手段を選ばず、まず彼に反対するコロンナ家の一族を教皇庁から追放し、ハンガリー、ポーランド、シチリア等の君主を処分し、フランス、イギリスの国王の争いに和解を命じ、ドイツ皇帝の選挙も教皇がこれを承認すべきであると主張し、特に回勅「ウナム・サンクタム」において、教皇は教俗両界における最高権の所有者であり、いかなる君主も全てこれに服従しなければならない、と主張した。しかし実際には、当時次第に台頭してきた王権を従わせることができなかった。フランス王フィリップ四世は財政の窮乏を救うために領内の教会に課税したのに対し、ボニファティウスは回勅「キレリキス・ライコス」を発して聖職者への課税を禁じ、さらにフィリップ王に対する命令権を主張した。しかしフィリップ王は三部会の支持を得てこれと争い、ボニファティウスが教皇であることを否認した。教皇は王を破門してこれに応えたが、フィリップ王の宰相ノガレはコロンナと共謀して、アナーニでボニファティウスを捕らえた。彼はすぐ釈放されたが、間もなくローマで没した。彼の死後、教皇の権威は動揺し始め、次第に衰退の道をたどった。

[480-8]フィリップ四世(よんせい)

1268〜1314。フランス王(在位:1285〜1314)。カペ王朝第11代の王。フランス王フィリップ三世とイザベル・ダラゴンの子として1268年に生まれる。封建分立を克服し、フランス絶対王政の基礎を固めた。国民国家主義を基盤とする絶対主義的政策をとったため、ローマ教会の主張する普遍的支配権と衝突した。教皇ボニファティウス八世が、世俗支配者の許可なくして、聖職者に課税することを禁止したのに対し、王は三部会を召集し、この国民的支持を背景に教皇と争って譲らなかった。さらにアナニヤで教皇に屈辱を与え、ついにこの豪気な教皇を憤死に追いやった。その後、国王は、フランス出身の教皇クレメンス五世を立て、これをフランスのアヴィニョンに座せしめた。

[480-12]グレゴリー十一世

グレゴリウス十一世とも。1329〜1378。教皇(在位:1370〜1378)。フランス最後の教皇。教皇クレメンス六世の甥。フランス王国のリムーザン、ロジエ=デグルトンに生まれる。アヴィニョンで教皇となり、ミラノとフィレンツェが連合してフランス人統治の教皇領に反乱を起こした時、フィレンツェ市を破門し、その反乱を鎮静した。ドミニコ会のカタリナが教皇に、この破門を解くことを請い、同時に教皇のローマ帰還を求めたので、教皇はフランス人側の引き留めをも聞かず、ローマに帰った。彼はウィクリフの教説を徹底的に排撃した。

[480-13]枢機卿(すうききょう)

すうきけいとも。カトリック教会における教皇に次ぐ高位聖職者。

[480-13]ウルバヌス六世

1318〜1389。教皇(在位:1378〜1389)。イタリアのナポリに生まれる。グレゴリウス11世の死後、イタリア人教皇を欲するローマの大衆の支持によって教皇に選ばれた。即位後、間もなくフランス系枢機卿たちの圧力を制そうとしたために、フランス系枢機卿たちは教皇選挙無効を宣し、アヴィニョンにクレメンス7世を立てて教皇とし、ここに対立教皇時代として著名な西欧の大シスマ(分裂)が起こった。

[480-14]クレメンス七世

1478〜1534。宗教改革時代の教皇(在位:1523〜1534)。フィレンツェに生まれる。メディチ家出身枢機卿を経て教皇となる。ギリシャ出身であったことから東方教会との合同が期待されたが、翌年急逝した。ルネサンス期の教皇のうちでは行状の正しい人物であったが、政略家として終始し、教皇権とメディチ家の権力の拡大のほか何一つ目的をもたなかった。しかも、政治家としての見識と実行力に欠けていて、その政策は失敗の連続に終わった。カール五世とフランソワ一世との戦に際しては前者に味方したが、その勢力の強化を恐れて、フィレンツェ、フランス、ヴェネチア、ミラノと同盟を結び、その報復として捕らえられ、ローマはドイツ軍に占領され、中立を誓わせられた。当時、各国で盛んになっていた宗教改革の気運を理解することもできず、その在位期間にはイギリスのヘンリー八世と対立してローマから分離させるなど、教皇庁の威信を失墜させることが多かった。

[480-17]アレクサンドリア五世

アレクサンデル五世とも。1339頃〜1410。対立教皇(在位:1409〜1410)。クレタ島出身のギリシャ人。フランシスコ会修道士となり、オックスフォード、パリに学び、パリ大学で教えた。司教、ミラノの大司教、枢機卿を経てピサ大会議において満場一致で教皇に推された(グレゴリウス十二世の対立教皇)。

[481-3]コンスタンツ大会

神聖ローマ帝国ジギスムントの勧めにより対立教皇ヨハネス23世によって召集された会議。教皇庁大分裂の解決、フスの異端審問、教会改革などを目的として、スイスとドイツとの国境にあるコンスタンツで開かれた(1414〜1418)。当時、ローマの教皇グレゴリウス十二世、アヴィニョンのベネディクトゥス十三世、ピサ会議(1409)で選ばれたアレクサンデル五世の後継者ヨハネス二十三世の三人が鼎立していたが、ヨハネス二十三世のみ出席した。彼の反対をおさえるため、会議は一般投票を排し、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインの五カ国の国別投票によって三教皇の退位を決議した。この結果1415年にヨハネス二十三世は廃位、グレゴリウス十二世は自ら退位。さらに1417年ベネディクトゥス十三世の位を剥奪、同年新教皇マルチヌス五世を選出して、ここに数十年にわたる教皇庁の大分裂は終わった。

[481-3]マルチヌス五世

マルティヌス五世とも。1368〜1431。教皇(在位:1417〜1431)。イタリアの ジェナッツァーノに生まれる。コンスタンツ公会議において、シスマ(分裂)を解決するために新たに選挙された教皇。3年後、ローマに入り、荒廃する同市の復興につとめ、会堂その他公共の建築物を再建、また親族の協力により教皇領を回復し、彼らに名誉と地位を与えた。教皇には、大規模な教会改革を行うことが期待されていたが、それは実行されなかった。コンスタンツ公会議の教令を尊重し、公会議の開催を宣言したが、開会を待たずに1432年2月20日に逝去した。

[481-12]ウィクリフ

ジョン・ウィクリフ(1320頃〜1384)は、イングランドのヨークシャーに生まれ、宗教改革の先駆者とされる人物である。オックスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れ、ミサにおいてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りである等、当時イングランドにおいて絶対的権力をもっていたローマ・カトリックを真っ向から批判した。ラテン語訳聖書を英語に翻訳し、英語発達史に一時期を画した。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、翻訳した聖書をもった牧者たちを地方に派遣し、広く普及した。ウィクリフの思想はボヘミアのヤン・フス、また100年後の宗教改革にも大きな影響を与えた。コンスタンツ公会議(1414〜1418)、すなわちカトリックの公会議では、ジョン・ウィクリフとヤン・フスを有罪とした。

[481-12]フス

ヤン・フス(1369〜1415)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに、宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られる。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。彼の最期の言葉は、「真実は勝つ」だったとされ、チェコ共和国の大統領府の旗に、「真実は勝つ」の言葉がモットーとしてあしらわれている。

[483-10]祭典(さいてん)

祭祀とも。神や祖先を祭ること。

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