『原理講論』には難しい言葉が使われている箇所が多くあります。そのため、意味がつかめなかったり、文脈からしてこうではないかと推測するものの、違った意味に捉えてしまうようなこともあります。そこで、難しい言葉に解説を加えてみました。
[ ]の中は、『原理講論』のページ数と、行数を示しています。一つの言葉に、二つ以上の意味がある場合、『原理講論』で使われている意味のほうに☆印をつけました。反対語は⇔で、参照は→で示してあります。
<摂理的同時性から見た復帰摂理歴史と復帰摂理延長時代④>
[483-15]人文主義(じんぶんしゅぎ)
ルネサンス期における、ギリシャ・ローマ・ヘブライの古典的教養を通して人間形成をはかる立場。ここから人間肯定の思想、すなわち、教会の権威や神中心の中世的世界観のような非人間的重圧から人間を解放し、新しい普遍的人間像が生じた。イタリアのペトラルカ、フィチーノ、フランスのビュディ、オランダのエラスムス、ドイツのメランヒトン、イギリスのトーマス・モーアなどが代表者。
[483-16]啓蒙思想(けいもうしそう)
17世紀、18世紀の西欧で近代市民階層の台頭に伴って広く行われ、市民社会形成の推進力となった思想運動の総称。
[484-9]釈迦牟尼(しゃかむに)
仏教の開祖。世界三大聖者の一人。紀元前5世紀ごろ、インドの釈迦族の王子として誕生。29歳で宗教生活に入り、35歳で成道した。45年間の布教ののち、80歳の2月15日入滅。彼の教えは四諦の中に要約されるが、そのうちの最後は、普遍的な人間の苦しみの経験からの解放へと続く道の存在を主張したものである。その目的はニルヴァーナ、すなわち全ての欲望の火を「滅」し、自己を無限の空間へと同化させるということである。
[484-10]ソクラテス
前470/469〜前399。古代ギリシャの哲学者。アテネに生まれる。自分自身の「魂」を大切にすることの必要を説き、自分自身にとって最も大切なものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事とした。「ソクラテス式問答法」として知られる手法は、敬虔、正義など道徳上重要な概念の定義を求め、その返答から矛盾を引き出し、それによって相手の無知を自覚させ、それらの概念をより深く探究するように促すもの。彼自身も何一つ答えを知らないと装う論法はソクラテスの弁証法と呼ばれる。アテナイで復興した民主制の熱心な擁護者たちによって、青年の不信心と堕落を引き起こしたかどで裁かれた。有罪となり、毒人参液を飲む方法により処刑された。彼の人格や理論は、プラトンの対話編で不朽となり、西洋哲学への影響は計り知れない。
[484-11]孔子(こうし)
紀元前5世紀頃の中国、春秋時代の思想家。主に独学で学び、19歳で結婚、地方行政官となり、前531年に教師の仕事を始めた。前501年に中都の宰(代官)に任命され、ついで司空(農事長官)となった。社会改革に関する思想によって民衆のアイドルとなったが、敵によって魯を追われ、多くの弟子と共に広く旅した。のちに古記録を編纂。死後間もなく編纂された言行録『論語』は、彼の言葉と行動の集大成である。彼の道徳教育は、親への孝行と兄弟への尊敬という伝統的な結びつきの重要性を強調するものであった。
[489-9]封土(ほうど)
封建君主が、家臣に封建的諸義務を履行させるための物的基礎として与えた恩貸物件。土地が通例。
[490-15]ハムラビ王
紀元前18世紀頃のバビロン第1王朝第六代の王。古代オリエントの最も重要な支配者の一人。バビロニアを統一、ハンムラビ法典を制定して中央集権政治を確立した。晩年には全メソポタミアの統一を成し遂げた。
[491-3]クレタ文明
前20世紀頃から前14世紀ごろまで、クレタ島で栄えた文明。エーゲ文明の中心であり、オリエント文明の影響下に発達した海洋文明で、ミケーネ文明に先行する。民族系統は不明。エバンズの調査により、クノッソス宮殿や多数の陶器類が発掘された。伝説上のミノス王にちなみ、ミノア文明とも呼ばれる。
[492-12]傭兵(ようへい)
金銭などの利益により雇われ戦闘・闘争に参加する兵士、または集団のこと。
[493-16]緩慢(かんまん)
1 動きがゆったりしてのろいこと。また、そのさま。☆
2 物事の処理の仕方が手ぬるいこと。また、そのさま。
[496-3]荘園制度(しょうえんせいど)
領地をもつ有力者を領主といい、それら個々の所有地を荘園という。働くのは農奴と呼ばれる、何でも領主の言うことを聞かなければいけない不自由身分の農民である。荘園は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。
[498-8]恩貸地(おんたいち)
フランク王国における最初の王朝であるメロヴィング朝時代には、恩恵の対象である土地もベネフィキウム(恩貸地)の名で呼ばれるようになる。ベネフィキウムは恩恵的貸与であるため、しばしばプレカリア(貸与、貸与地)と同義で用いられた。保有者は一定期間(通常終身)の用益権を認められる代わりに,なんらかの貢納や奉仕を義務づけられた。カロリング朝諸君主が教会領の大規模な収公を行って,それを臣下に軍事義務と引換えにベネフィキウムとして譲与して以来、ベネフィキウムは,しだいに従臣の生活を物的に保障する封土とみなされるようになる。
[499-16]チャールズ・マルテル
カール・マルテル、シャルル・マルテルとも。686〜741。メロヴィング朝フランク王国の宮宰。フランク王国の東北部にあたるアウストラシア(現在のドイツ南西部、フランス北東部、ベルギー、オランダ)の宮宰ピピン二世の子として生まれた。カロリング家出身で、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の進撃を食い止め、西ヨーロッパへのムスリムの侵入をイベリア半島でとどめたことで名高い。聖ボニファティウスやアングロ・サクソンの宣教師を保護し、ローマ教皇庁と友好関係を保った。彼の実質的権力を基礎にして、その子ピピンはカロリング王朝を興した。
[500-1]ピピン
ピピン三世とも。714〜768。短軀(たんく)王。フランク王国カロリング朝の創始者。フランク王国メロヴィング朝の宮宰チャールズ・マルテルの子、チャールズ大帝の父。生地のジュピユ(Jupille)は現在ベルギー領であるが、当時はアウストラシア王国内にあった。751年最後のメロヴィング朝フランク王国ヒルデリヒ三世を退位させ、王となる。ランゴバルド人の攻撃で悩んでいた教皇ステファヌス二世をフランク王国へ招き、領土の奪回を約束したため、教皇は、ピピンに戴冠式を行う。ピピンは、教皇の要請により出兵し、ランゴバルド王アイストゥルフを破り、占領地であるラヴェンナの総督領を教皇に寄進し、教皇領の基礎をつくった。教皇は、ピピンに「ローマの保護者」という称号を贈った。
[500-6]レオ三世
( 〜816)。教皇(在位:795〜816)。ローマの貧民階級の出身であったが、聖職者の道を歩んで、795年にローマ教皇に就任する。しかし前任者ハドリアヌス一世の縁者に襲撃されて負傷し、アルプスを越えてチャールズ大帝のもとに逃れた。チャールズ大帝の保護を受けローマ教皇としてローマに戻ったのち、チャールズ大帝から受けた恩や東ローマ帝国庇護下にある東方教会と対抗するという経緯から、800年12月のクリスマスの日、サン・ピエトロ大聖堂でのミサの最中、チャールズ大帝に西ローマ皇帝の帝冠を授けた。ここに、西ローマ帝国復活、そしていわゆる欧州の大実力者とローマ皇帝の提携という、欧州の新たな歴史が開かれた。816年に死去した。
[501-13]王権神授説(おうけんしんじゅせつ)
君主の権威は神より授かったものであり、たとえ暴政であってもこれに反抗することは、最大の罪であるという説。このように支配者の神的権威を主張する思想は古代からあり、また中世においては、両剣論という形で表明されたが、特に王権神授説という形で主張されたのは、近世に至ってからであり、人民の権利の意識の目覚めに対抗し絶対主義的王権を弁護するためであった。
[502-10]マニファクチャー
工場制手工業。手工業から機械制工業へ移行する過渡段階の工業形態。賃金労働者を単一の作業場に集め、分業に基づく協業を行うもの。イギリスで16〜18世紀に最も典型的な形で行われた。
[506-16]トーマス・モーア
トマス・モアとも。1478〜1535。イギリス・ルネサンス期の法律家、思想家。カトリック教会と聖公会で聖人。ロンドンに生まれる。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。オックスフォード大学出身、エラスムスと交わり、相互に影響し合った。カルトゥジオ修道会に入る。下院議員ロンドン副長官などを歴任。『ユートピア』を著して世相を批判し、理想的な国家像を画いた。その後大法官になったが、ヘンリー八世の離婚問題がローマ教皇との紛争を惹起した時に、両者の板挟みになって辞職した。彼自身は王の離婚に反対であり、そのため大逆罪に問われ処刑された。ルターの福音主義に反対し、カクリックのヒューマニズムによる平和と社会正義の実現を望んだ。彼のユートピアはもともと当時の資本主義的発展に批判的・保守的なジェントリ貴族層の視角からの世相批判であったが、資本主義批判の進歩的社会思想が勃興するとともに、その思想的源泉の位置をも占めるに至った。1935年に列聖された。
[506-16]ユートピア思想
理想主義、ユートピアニズムは20世紀のロシア革命など、様々な功罪を生み出してきたが、「ユートピア」という単語自体は、トーマス・モーアの造語で、そこからユートピア文学が始まったといわれる。しかし、思想としての理想主義、ユートピアニズムは、古くはプラトンの時代から存在しており、現在も継続中である。
ユートピアは現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判を行うことである。
[506-17]オーエン
ロバート・オーエン。1771〜1858。イギリスの空想的社会主義者、協同組合運動の創始者。北ウェールズのニュー・タウンに生まれ、小手工業者の子として産業革命の暗黒面を体験した。のちにマンチェスターの紡績工場の支配人として、労働者の生活改善、世界最初の幼児学校設置、共済店舗の創設に尽力、私財を投じてアメリカのインディアナ州に共産社会「ニュー・ハーモニー」を建設したが、失敗。帰国。ついで労働時間による労働貨幣によって生産物を交換する施設を造ったが、これにも失敗した。しかし、彼の社会思想は、サン・シモン、シャルル・フーリエと共に現代社会主義思想の先駆けとして高く評価されている。
[507-1]キングスリー
チャールズ・キングズリーとも。1819〜1875。イギリス南西部、コーンウォール半島の中心部を占めるデヴォンシャー州のホーン(Holne)に生まれる。イギリス教会の聖職、キリスト教社会主義者、作家。ハンプシャー州のエバーズリーの牧師補に任じられ、生涯の大部分をここで過ごした。ウィリアム・モリス、トーマス・カーライルの影響を受けてキリスト教社会主義を信奉、その運動の有力な指導者の一人として、特に穏健な労使協調主義の普及、教育制度・衛生施設の改革に貢献した。また、多数の創作を公刊した。『水の子』『ギリシア神話英雄物語』『ハイペシア』などなど。
[508-3]享有(きょうゆう)
権利・能力などを、人が生まれながら身につけてもっていること。「基本的人権の―」「人間は自由と責任とを―している」
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