光言社 編集者ブログ

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2024年04月25日

57年前の命の恩人を訪ねて

 甲辰(きのえ たつ)の年に生まれた私、実は半世紀以上の間、手をつけられずにいたことがありました。それは、今は亡き両親から課されていた、宿題のようなものです。
 私は3歳のときに、川に落ちて危うく死ぬところを救われました。その命の恩人を探してお礼を言うようにと言われていたのです。

 話は、57年前にさかのぼります。
 当時、私の家族は長野県のとある市で、かじ屋を営む一家の物置小屋を借りて暮らしていました。その家と道路の間には、小さいけれど流れの速い川がありました。入居後に大工職人の父が、道路と行き来しやすいようにと、玄関の前に橋を造りました。
 その橋の上で、3歳上の姉と遊んでいたとき、何かの拍子に足をすべらせて川に落ちてしまったのです。姉は、私の名前を叫ぶことぐらいしかできず、ただ流れていく私を見つめるだけだったそうです。

 何分くらいたったでしょうか、運良く私は引き上げられて、助かりました。
 拾い上げてくれたのが、すぐ川下にあった大家のかじ屋さんの息子だったと、両親から教えられました。

 2年後、わが家は市内の別の地区に引っ越しました。その後、私は県外の高校に進学し、卒業後もほとんど首都圏で生活してきたため、恩人を探すきっかけがありませんでした。

 還暦を迎える今年、ついに一念発起しました。
 2月、天皇誕生日を含めた3連休。生まれ故郷で恩人探しを始める決意をしたのです。
 1日めは、事故の目撃者である姉を訪ねて、今回の帰省の目的を告げました。姉も「そうね、恩人にお礼を言わなければならないね」と、ハンカチで目頭を押さえながら言ってくれました。

 2日めは、両親の墓前に帰省の目的を報告し、それまでの親不孝を詫びました。
 両親は1960年に結婚し、ある宗教団体の物置小屋で家庭を出発。その宗教団体は、その頃、故郷でブームになっていたもので、狭い町の中に同系の布教施設が5つもできるほど興隆していたそうです。
 兄と姉がそこで生まれ、私がお腹に宿ったとき、両親は新しい住居を探して引っ越しました。それが、私が事故に遭った川のそばの家でした。
 恩人探しの手掛かりは、昔、かじ屋をしていた家。あとは子供の頃の断片的な生家周辺の記憶

 駅前から旧・北国街道を南下すると、おぼろげながらに当時の記憶が蘇ります。通い慣れた小学校を過ぎ、次第に目的地が近づきますが、流れの速い川はすでに暗渠(あんきょ)へと姿を変えていました。
 歩みを進めると、やがて見覚えのある三差路に差し掛かりました。右の道を選びそのまま歩くと国道に出ます。昔、母に手を引かれ、バスの停留所まで歩いたのを思い出しました。そうです、生家跡を通り過ごしていたのです。母の手の温もりを思い出した瞬間、母が近くにいるような感じがしました。
 「いつから一緒に歩いていたの」と、見えない母に尋ねながら少し戻り、何か昔の痕跡のようなものを探しましたが、何もありません。
 位置的に生家跡の大体の見当をつけ、今風の住宅の玄関先でインターホンのボタンを恐る恐る押してみました。

 昔、この辺りにいたかじ屋さんを探していることを伝えると、「うちは違います。隣の家で聞いてみて」との答え。隣家を訪ねると、70歳代の老夫婦が応対してくれました。そして老人が「うちの父は、むかしここでかじ屋をやっていました」と教えてくれたのです。
 私は、3歳の頃の自分が川に落ちた一件を説明し、かじ屋さんの2人の息子さん(中学生と高校生)に救われたことを話しました。

 すると老人が、「それは自分と弟のことだよ。大工の◯◯さんのこと、覚えているよ」と、私の父の下の名前を叫んで、微笑んだのです。父の気配まで感じた瞬間です。
 それまでけげんな表情で聞いていた夫人も、夫のようすを見て笑顔に変わりました。
 物置小屋だったため、当時の家には風呂がなく、入居当初は銭湯通いでしたが、私が生まれてからは、かじ屋さんの母屋で頻繁にお風呂を呼ばれるようになったことを伝えると、恩人もニコニコ顔でうなずいていました。

 そんな話をしばらくした後、菓子折りを差し出して改めて感謝の気持ちを伝え、そこを辞しました。
 私の両親の気持ちも一緒に届けられたような、清々しい気持ちになりました。

 今でも、川の中で見た光景を思い出すことがあります。とっさに息を止めじっとしていると、やがて目の前に水面が近づき、息ができるようになりました。呼吸ができると、不思議と恐怖心に襲われることはありませんでした。
 しばらく流れに身を任せていると、目の前に体の大きい男子が現れ、私を両腕で抱きかかえたのです。その男子のそばに寄り添い体を支えていた兄らしきもうひとりの男子が、今回私が会った老人、その人でした。恩人が現在も健勝で、同じ場所に住んでおられたなどの幸運が重なり、意外とあっけなくミッションが終了しました。

 母は生前、私に「かじ屋さんの息子さんに救われたのは、親神様(この世、人間をお創りくだされた神様)のご守護だよ」と繰り返し言い聞かせてくれました。
 以前にもその川では、溺れて亡くなった幼児が何人かいたそうです。神様に救われたことがただ嬉しくて、神様のことが好きになりました。
 1983年に長野家庭教会でみ言を学んだのも、「大好きな神様のことがもっと知りたくて」が、その動機でした。

 3日めに帰宅し、妻と息子に旅の報告をしました。今回の帰省は、両親と一緒に私の命の恩人を探すことができたという点で、他の帰省のときとは違い記憶に残る3日間であったこと、そして何よりも神様が私の命を救ってくださったことを再確認できた帰省だったことを伝えました。「おやき」と「野沢菜漬け」のみやげも好評でした。
 命を救っていただいた上に、妻と息子までいて、還暦まで生きることができました。神様には、ただ感謝の気持ちしかありません。(F)

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