真のお父様が聖和されてから、いや、そのずっと以前からだったかもしれませんが、強く意識するようになったことがあります。
「文鮮明」という人物をどのように理解し、どのように伝えたらいいのか……。
イエス・キリストは、今日に至るまで長い期間にわたって無数の人々によって語られ、表現されてきた人物の一人です。文鮮明先生もまた、無数の人々によって語られていく存在でしょう。言い換えれば、文鮮明先生は無数の人々の心の中に生き続け、人間や社会に影響を与え続けていくということです。
私たち統一運動のメディア制作に携わる者のミッションの出発点もまた、「文鮮明先生を伝える」ことにあるのだろうと思います。しかし、人の感じ方、捉え方はそれぞれです。事実を注意深く積み重ねて表現したつもりでも、必ずしも真実を伝えられるわけではありません。上があれば下があり、表があれば裏があるのと同様に「主観」と「客観」も一体のものであり、境目を明確に切り分けることは容易ではありません。その意味で、作品を創るというのは恐ろしいことだなといつも思わされます。
「作品を見てその作者の性稟を知ることができる」。『原理講論』では、見えないものを知る方法をロマ書のパウロの言葉を引用し、作者と作品の関係で説明しています。見えるものを通して見えないものを知ることができるというわけです。
活字や映像として残された作品は「見えるもの」として「見えないもの」を代弁することになります。「主観」とは作者の意図、あるいは解釈だと言うことができるかもしれません。制作者(編集者)の主観と客観によって「見えないもの」に「見える」形を与えられていきます。
見えない神の存在を知ってほしかった、神の事情と心情を理解し感じてほしかったのが文鮮明先生の生涯だったとすれば、私たちは文鮮明先生について伝えようとするとき、目に見えない無形の存在、生きた神を作品の主人公として登場させなければなりません。
制作の現場では、きょうも主観と客観の狭間で「見えないものを見えるようにする」という可視化作業のために、汗にまみれた悪戦苦闘が繰り広げられています。