2024.11.20 17:00
共産主義の新しいカタチ 39
現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)
コギト中心主義超克するパラダイム
ライヒ結婚観への思想的反駁①
欲望のため子供を犠牲にしたライヒ
伝統的な結婚を「生涯にわたる強制的な一夫一婦制」と決めつけ、「持続的愛情関係による事実婚」を提唱したライヒは、「愛の永続性」を否定し、女性の権利の擁護者に見えて実は堕胎を強要するエゴイストだったのです。
前回の「相関図」で示したようにライヒは、伝統的な結婚形態を「強制的なもの」と決めつけて糾弾し、「永続しない持続的な愛情関係としての事実婚」を奨励。さらには「産む/産まぬ」を自ら決定できる、つまり「性的自己決定権」と「堕胎」を合法化する運動を展開しました。
しかし、真正なる意味で「生命尊重」を訴えようとすれば、「生命の誕生」を人為的に妨げる「堕胎」という行為は決して認められないでしょう。なぜなら、胎児は「モノ」ではなく、誕生してなくとも生への意志を持った立派な生命体だからです。だから宗教的には「殺人」と見るのです。
ところがライヒは胎児どころか、生まれた子供すら「性行為の派生物」に過ぎないと考えたでしょう。「伝統的な結婚は地獄」と喧伝し、離婚を扇動しながら両親の離別によって犠牲となる子供たちの「セーフティネット」は考えなかったからです。
それはライヒ自身の「家庭」においても如実に言えました。つまり、最初の妻アニーとの間に生まれた子供たちが犠牲となったからです。また米国時代の「第三の妻」イルゼ・オレンドルフも、ライヒとの間に男児をもうけました。ところが、北欧時代に苦楽を共にし、最もライヒが愛情を注いだと言う「第二の妻」エルザ・リンデンベルクには、子供を持つことを許さず、妊娠しても堕胎させたのです。
かくして、ライヒが決して「男女同権論者」でも「子供の人権主義者」でもないことは、子供の養育について、ルソーやフーリエのように「社会的分業」論者から明らかです。
西欧思想が共有するコギト中心主義
こうしたライヒのような結婚観・人間観は、エゴイズムと唯物無神論の極致と言えます。そこで、こうした考え方を批判・克服する思想としてどのようなものが挙げられるか、考えてみましょう。
さてそもそも、マルクスとエンゲルスが依拠したのはヘーゲル左派哲学でしたが、西洋近代哲学の一方の雄・「合理論の祖」と言われるのがフランスのルネ・デカルトです。デカルトは「コギト・エルゴ・スム」(我思う、ゆえに我在り)と主張し、「考える自分(自己意識)以外の一切を疑う」という「方法的懐疑」を唱えました。
この「コギト」(考える私)が西欧哲学の「骨組み」となってきた、ということは多くの哲学者が捉えている点ですが、これは言うなれば「独我論」にほかなりません。つまりこうした独我論的姿勢は、「シングルの思想」(シングル・パラダイム)とも言い換えることができます。ところが、「人は結婚して家庭を築くことが義務であり、人格の完成、すなわち人倫の実現が成し遂げられる」という「家庭守護」の思想は、いうなれば「カップルの思想」(デュアル・パラダイム)ということができるでしょう。
主著『全体性と無限』で、ハイデガー哲学を「存在論の帝国」と手厳しく批判したエマニュエル・レヴィナスが企図していたものも、実は「コギト中心主義の克服」にあったと言えます。具体的に言えば「他者への気付き」ということです。この「他者への気付き」とは何でしょうか。この点について、分かりやすく、かつうまく表現しているのは、ユダヤの宗教哲学者マルティン・ブーバーの『我と汝』です。
ブーバーの「我-汝」の世界観
ブーバーの表現によれば、二つの根源語「我-汝」「我-それ」を用いた二種類の世界観があるというのです。本稿の文脈で言えば、後者「我-それ」で表現される世界観こそ「コギト中心主義」の独我論的世界観(シングルの世界観)であり、前者の「我-汝」で表現される世界観が、「私と他者との関係性から築かれる世界観」ということになります。
日本語で「他者」「他人」という場合、むしろ「我-それ」でいう「それ」に近いニュアンスがありますが、キリスト教的な、つまりは新約聖書的な表現で言えば、それは「隣人」と言い換えられるべきものです。つまり、自分とは遠くの方にある抽象的な存在ではなく、「我」にとって身近でしかも「呼べば答えが返る」ような存在とも言えるでしょう(ブーバーの原著のタイトルは『Ich und Du』であり、Du〔きみ〕はDich〔あなた〕より近しい関係を表現しています)。
前回言及したレヴィナスでもこのブーバーに関し触れている箇所もありますが、この「他者」あるいは「汝」という箇所は、「神」という言葉で言い換えられることが分かるのです。(続く)
★「思想新聞」2024年11月1日号より★
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