2024.11.27 17:00
共産主義の新しいカタチ 40
現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)
コギト中心主義超克するパラダイム
ライヒ結婚観への思想的反駁➁
「隣人を愛する」ということの意味
前回言及したレヴィナスもこのブーバーに関し触れている箇所もありますが、この「他者」あるいは「汝」という箇所は、「神」という言葉で言い換えられることが分かるのです。
それはイエス・キリストが「汝の主を愛するように、汝の隣人を愛せよ」と説いたことに呼応しています(ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中でこれを逆手にとり「“遠人”こそ愛せ」と主張しています)。
しかし、イエスのいう「隣人」とは「己れと身近に接する人」という意味ですが、身近な存在ほど実は「愛すること」が難しいということを、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の無神論者イワンに語らせています。
そしてその「隣人」とは家族や同胞だったら比較的愛するのは容易かもしれません。ところが、「異邦人」つまりユダヤ民族にとっての異教徒ですら「隣人」たりうるわけです。異教徒であっても「善きサマリア人」になりうるということです。もっと言えば異教徒にさえ「神は働く」ということも意味しているのです。
そのような「他者」を「隣人」と認めることがすなわち、「我-汝」の世界観(あるいは有機的自然観)と言えるのではないでしょうか。これは別の言い方をすれば「私には(配偶者や神などの)同伴者が存在する」との認識(カップル・パラダイム)になります。
その反対に、「隣人」ではなく単なる「異邦人」それどころか「敵」と見なしてしまうこと、それが「我-それ」という独我論的世界観(あるいは無機的自然観)ということになるのではないでしょうか(シングル・パラダイム)。
そこで、「コギト中心主義」(独我論ないしはエゴイズムとも読み替えられます)を超克する思想への糸口として、「我-汝」と「我-それ」の人生観について深掘りしてみましょう。
いわゆる「シングルライフ」は決して後ろめたいネガティブな生き方ではない、というプロパガンダがその趣旨に合ったと述べました。
この「シングル」の人生観には多分に「自己決定論」のイデオロギーが胚胎しています。(子供を)産む/産まないを自分で決める権利、すなわち「リプロダクティブ・ライツ」はその典型例ですが、自ら命を絶つ、つまり自殺することも、「権利」として認められるべきものなのでしょうか。実を言えば、このことが究極的には「シングル」なのか「カップル」の人生観なのかが如実に問われてくる問題と言えます。
私の意識と独立し機能する身体
独我論的人生観か非独我論的世界観のという差異というのは、「私という存在」「私という生命」をどう見るか、という問題にゆきつくと言えるでしょう。「私という存在」は、100%「私」の意志で自存できるのでしょうか。例えば、私は自らの意志で息を止めたり、食事をしたりします。ところが、手足を動かしたり、言葉を話したりするようには、自分の心臓を動かしたり、血液の流れを意識的に「自分の意志で」動かすということはしません。
このことは何を意味しているのでしょうか。私の身体は、私という意識、あるいは意志とは独立して無関係に働いていることは明らかです。この点については、既にデカルトの時代から心身二元論として指摘されてきました。デカルトは身体を「機械」のようなものと考えて、解決を図ろうとしました。
所与への認識と「我-汝」の世界観
しかしそうではなく、この意識とは独立しているように見える身体現象を通して、ある認識に至ることもありうるでしょう。その認識とは何かと言えば、「私という存在は《所与(しょよ)》なのだ」という認識です。この場合の《所与》とは何でしょうか。つまり「与えられたるところのもの」ということです。言い換えるなら、「私という存在は自らの意志をもって自分の人生を開始したのではない」という「事実」にほかならないのです。
それは直裁的に言えば、両親の性交渉が原因なのであり、情緒的に言うと、両親が愛し合った結果、この世に生を受けたのが、私という存在なのです。
しかも私と結びついているのは、何も父母ばかりではなく、祖父母・曾祖父母、…と先祖から連綿と受け継がれているのが「血統」、言い換えれば遺伝子、ということになります。使い古された表現ですが、私という存在は、先祖から代々遺伝子という「襷(たすき)」(ないしはバトン)を受け継いで現在に至っているわけです。
★「思想新聞」2024年11月1日号より★
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