2024.11.13 17:00
共産主義の新しいカタチ 38
現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)
「女性の味方」の実態は稀代のエゴイスト
続 ウィルヘルム・ライヒ➁
「家族を守る」思想説くヘーゲル
フロイトは生命の本能たる「リビドー」と、「タナトゥス」と呼ばれる「死への本能」を対置させ、ある種の人間存在の非合理性を説きました。まだ「死」に対する意味を考える余地を残し、少なくとも「死生観」があったと言えます。対してライヒは、フロイトの「死」に対する執着を、無意味なものと考えました。それどころか、「性=生」という観念を抑圧するものだとして糾弾しさえしました。つまりライヒにとっては、「性を抑圧するもの全ては悪」という価値観だったのです。
これに対してヘーゲルは、結婚について「自然的で個別的な人格性を前述の一体性において放棄して一人格を成そうとすることの同意である。この一体性は…彼らの解放である。人間の客観的なつとめ、したがって倫理的義務は、婚姻状態に入ることである」(『法の哲学』)と述べます。
「結婚は人間の倫理的義務」とまで断言し、キリスト教的倫理観に基づく家族重視の社会というものを哲学的に基礎づけようとしたのが、実はヘーゲルの思想と言えます。
ヘーゲルによれば、やはり個人で努力するよりも、家族を築くことによって人格完成される、と捉えていたと言わざるを得ません。そうでなければ「人間としての義務」とまでは言えないでしょう。そしてまた、共同体において、個々人としての意見の違いや矛盾などははらんでいたとしても、共同体全体で考えた場合の「人倫」の実現こそが弁証法における、矛盾を止揚した「ジンテーゼ」(総合)という完成段階に至ると考えていました。
家族守護のヘーゲルと対極にあるライヒ
しかし、ライヒは『性と文化の革命』で次のように述べます。
「義務としての結婚には、まだなっていない性関係の場合にも、難しさを生み出しているいくつかの事実に触れなければならない。何のことかというと、特に女性によって受け入れられ、そして代弁されている、一夫一婦制のイデオロギーのことだ。…性道徳は、実のところ所有の利害で充満しているので、男が女を『所有』し、女が『自分を与える』ということが当たり前のことに思われるような事態をもたらした。…女性は性行為に対して否定的な態度を持つようになる。この態度は、権威主義の教育によって養われている。…女の子は赤ん坊の時から、女はたった一人の男とだけ性交するべきだという要求を、吸収してきたのだ。そういう教育の影響は―無意識のうちにある罪悪感がこれにとりついて―たいへん深く、強力なのだ。…『私の母親は一生ひどい結婚に耐えてきた。だから私もそれに耐えなければならない。』たいていの場合、忠実な一夫一婦制を守った母親との、こういう同一視が、最も有力な抑制因子だ」
ヘーゲルの「人倫」など、キリスト教的家父長制社会を正当化するドグマとして真っ向から対立している、と言わざるを得ません。
ライヒの主張する理論と、実際の人生を探ると、一見、男女平等と性の解放、婚姻制度の廃止と事実婚主義を賛美したライヒという一人の人間が、果たして「真っ当」な「空虚ではない性のあり方」を歩んだのでしょうか。
実際そこには男女平等という観点どころか、自分に都合のよい、自分を正当化するための道具と見なさざるを得ない、身勝手極まりない状況が浮上するのです。
伝統的な結婚を「生涯にわたる強制的な一夫一婦制」と決めつけ、「持続的愛情関係による事実婚」を提唱したライヒは、持続する限りで「永続的で排他的なものとはならない」とライヒはハッキリと認め、「愛の永続性」を否定しました。
その言葉通り、彼の異性関係の実態を示しているのが上の相関図です。しかも、ライヒという人物は「女性と子供の味方」では決してありませんでした。
それどころか、女性の権利の擁護者に見えて実は堕胎まで強要するエゴイストだったのです。
★「思想新聞」2024年10月15日号より★
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