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共産主義の新しいカタチ 37

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「女性の味方」の実態は稀代のエゴイスト
続 ウィルヘルム・ライヒ①

▲ウィルヘルム・ライヒ(ウィキペディアより)

「性は神聖なもの」という宗教的発想
 アレクサンドラ・コロンタイらのソヴィエト社会主義による「家族解体」政策を視察し、「性肯定による文化発展」の図式(『性と文化の革命』)の必然的運命とライヒは見なしましたが、「生きることはいいこと」という「宗教抜きの生命礼賛主義」であり「性(快感)肯定至上主義」に通じると指摘しました。

 ただ、宗教が歴史的に「性」を絶対的に否定してきたわけではありません。

 確かに、カトリックでは聖職者の妻帯を禁じ、また仏教も天台宗は僧職者の妻帯を禁じます。しかし、それは罪を犯すことなく「性を神聖視するため」のもので、結婚は神によって祝福される「唯一の性的関係」としているからです。古今東西、神仏の前で保障され、契約されるのが「結婚」という儀式であり続けてきたゆえんでしょう。

 エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』で、「原始乱婚社会では嫉妬が克服された」と独断的見解を唱えますが、「感情と知性を持った人間が、そんなことを克服できるわけがない」とマルクス主義思想家の吉本隆明ですら、エンゲルスの暴論に異を唱えています。

「性的自己決定権」こそ生命を軽視する
 「命を大切に」「生きるってすばらしい」という「生命礼賛の観念」は、本来は極めて宗教的なものでしょう。そう考えれば、「性」とは生命の誕生に直結する神秘的なシステムとして、「神聖視」するのは当然で、「避妊」や「堕胎」といったいわゆる産む/産まないを決める「性的自己決定権」(リプロダクティヴ・ヘルス・ライツ)の主張は、生命軽視にほかならず、ライヒの「集団での、生きることはいいことだと肯定させるような性関係」の主張は、極めて独善的で、自ら「性的コミューン」を実現させる詭弁にすぎません。

 ライヒは「普通の結婚が持つ性の空虚さ」と表現しますが、「家庭を築く」という営為のうちにこそ、真の意味での「生命礼賛」が存在する、と言えないでしょうか。

 男女の性的関係から想定されるのは、子供が生まれ、育てるということです。ライヒの考え方によるならば、生まれた子供は「副次的な産物」であるか、それどころか「邪魔な存在」のように忌避(きひ)されます。

 また、ライヒの主張を敷衍(ふえん)していけば、容易に「生きるが勝ち」(強者が生き残る淘汰論)ということになるでしょう。つまりダーウィニズム(自然淘汰)の社会的展開で、いかなる手段を講じても最終的には「勝ち組」になりさえすればいい-。これはまさしく「宗教抜きの(唯物的な)生命礼賛」の皮相的側面と指摘せねばなりません。

 この考えこそ実は「エセ生命礼賛主義」であり、「性と結婚」を神聖視する宗教的価値観を否定するための詭弁と言えるのです。唯物的な価値観に根ざすものは、死者を哀悼したり、思いを致したりはしません。その傾向が色濃く反映されているのが、法の考え方です。例えば、殺害された被害者の生命よりも、むしろ現在生きている加害者の更生を期待する、という傾向の体系と言えます。(続く)

「思想新聞」2024年10月15日号より

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