https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4290

ほぼ5分で読める勝共理論 69
日本共産党について⑧
日本共産党「武装闘争」時代

編集部編

襲撃事件はなぜ起きたのか
 今回は、戦後の日本共産党の歴史の中でも最も重要な時期である、1951年から1952年の「武装闘争」時代について説明します。

 実は日本共産党は、この時期に数えられないぐらいのたくさんの暴力的事件を起こしています。
 そのきっかけとなったのが、「51年綱領」あるいは「51年テーゼ」というものでした。

 これが何かというと、日本共産党が1951年に「第5回全国協議会」という大会を開催し、そこで正式に採択した文書です。
 正式には、「日本共産党の当面の要求、新しい綱領」といいます。

 当時の日本共産党は、たくさんの国会議員を当選させていました。衆議院議員だけでも35人の議員がいました。
 それでその人たちを中心として、日本を共産化する方法は、マルクスが言うような暴力革命ではなく、話し合いによって、選挙に勝って、憲法に定められた手続に従ってやるべきだという意見が出てきていました。

 これを「平和革命戦術」といいます。
 このことは共産党の中でもだいぶ議論されました。

 それで結局どうなったかというと、「平和革命戦術は間違っている。マルクスの理論はあくまでも暴力革命だ。それが理論的に正しい。そうでないと本当の共産主義ではない」、そういう方針が決定されました。
 これを党の見解として正式に発表したのが先ほどの「51年テーゼ」です。

 具体的な文章としては、「日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成し得ると考えるのは間違い」であるとか、「武装の準備と行動を開始しなければならない」といった表現が採用されました。
 そしてこの方針に基づいて、全国の共産党員がたくさんの襲撃事件を起こしました。

練馬事件と大須事件
 今回はその中から、二つの有名な事件を紹介します。
 まずは練馬事件です。これは、練馬区の交番のお巡りさんだった伊藤巡査が10人の共産党員に惨殺されたという事件です。

 伊藤巡査は事件の直前に、共産党系の労働者を逮捕していました。それで共産党員らが伊藤巡査を恨んで、殺害することに決めました。

 そのやり方は本当に卑劣でした。ある共産党員が夜遅くに交番に行って、「近くで倒れている人がいます」といって伊藤巡査をおびき出したのです。それで伊藤巡査が畑に行ってみると、実際に人が倒れていました。

 伊藤巡査がその人を介抱しようとして抱きかかえると、その隙に10人の共産党員が一斉に襲いかかりました。
 不意をつかれた伊藤巡査は何もできませんでした。それで鉄パイプや木の棒などでめった打ちにされて、伊藤巡査は亡くなりました。
 これが練馬事件です。

 次に大須事件です。
 今、名古屋市には名古屋ドームという野球場がありますが、かつては名古屋市の大須という地域に野球場がありました。
 ここにたくさんの共産党員が集まって、警察に届け出をしないで勝手にデモを行いました。警察官がデモをやめるように呼びかけると、今度は石を投げたり火炎瓶を投げつけたりしました。もちろん火炎瓶は、彼らが警察との闘争のために準備してきたものです。

 こうしてたくさんの警察官が負傷して、警察の車が炎上しました。逮捕された人数は269人にもなりました。これを大須事件といいます。

 他にも全国各地の共産党員が、「山村工作隊」とか「中核自衛隊」といった組織をつくりました。
 そして列車の爆破事件、交番への焼き打ち事件、あるいは警察官へのテロ行為などを行ったのです。ここには大学生も多数参加しました。
 彼らは本当に日本という国が間違っていて、共産主義の国をつくろうと考えていたのですね。

 では、彼らはその後、どうなったのでしょうか。
 そのことについては次回、お話しいたします。

【関連書籍】

◆『よくわかる勝共理論~日本と世界の平和のために~』(光言社)

▲詳細はこちらをタップ