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宣教師ザビエルの夢 76

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 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第六章 ザビエルの願いをたずねて

二、二つの出会い

●パリでの出会い
 日本に初めてキリスト教をもたらし、後に「東洋の使徒」と呼ばれるようになったフランシスコ・ザビエルは、1506年、スペインの北部、国境近くのナバラ地方ザビエル城に生まれました。19歳の時、パリの聖バルバラ学院に入学し、ここで本格的な学問を始めます。1537年、31歳で司祭に叙せられ、しばらくローマに滞在した後、1541年には宣教師としてインドに向けリスボンを出発しています。それから8年後の8月15日、彼は日本の鹿児島に上陸しました。そして2年3か月の間、鹿児島、平戸、山口、大分で宣教の実りを上げインドに去りました。その後、彼は中国宣教を志し、上川島に上陸しましたが、1552年12月3日に熱病のためこの世を去りました。

 かつての使徒パウロのごとく、船を駆り、世界を駆け巡りながら、宣教の旅に身をささげたザビエルの半生でした。彼がなぜそのような人生を送るようになったのか、また、なぜ日本にまで来たのかを考えるとき、二人の人物との決定的な出会いがあったことを忘れることはできません。

 一つは、パリ時代に学寮の同室になったイグナチオ・ロヨラとの出会いです。学業に秀で、この世の名誉を追い求めていた時代のザビエルに、キリストの言葉を繰り返し語ることで、この世の富や名誉にまさる存在があり、別の生き方があることを諭しました。

 「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(『新約聖書』マタイ福音書16・26)

 この言葉は次第にザビエルの心をとらえ、本格的にロヨラの指導に服することで彼は生まれ変わり、新しい修道会であるイエズス会創設に加わるのです。

 ザビエルはロヨラを生涯「慈父」と呼び、自らを「小さき息子」と呼びました。骨肉の情を越えた友情、子弟愛は、キリストへの献身の志をより高め、世界宣教の原動力にもなりました。インド宣教に派遣される予定の会員が、病気のため出発できなくなったとき、ロヨラが代わりに差し出したのは、彼の右腕として最も信頼を寄せていたザビエルでした。そしてザビエルは、ロヨラの申し入れに躊躇(ちゅうちょ)することなくこたえ、すぐに出立したのです。

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 次回は、「マラッカでの出会い」をお届けします。


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