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宣教師ザビエルの夢 74

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第六章 ザビエルの願いをたずねて

一、建てかえられた神殿

●浦上天主堂の再建
 聖堂の崩壊と再建の出来事を思うとき、すぐに思い出すのは、長崎で被爆し、戦後は原爆症のため病の床にありながら多くのエッセイを残した、永井隆博士のことです。

 彼は、浦上天主堂の上空でさく裂した原子爆弾を、大胆にも「神の摂理」ととらえ、その下で亡くなったたくさんの修道女、女学生たちを潔い供え物と呼びました。それは日本に覚醒(かくせい)を促すものであり、人類に新しい未来を築く決意をさせるための、神様の一喝だったというのです。また、先祖が苦労して建てた「神の家」を戦争によって焼いてしまったことは、人々の罪であるととらえました。そして、最愛の妻を原爆で失った悲しみを乗り越えて、いの一番に聖堂再建に乗り出したのです。神の家を花で満たし、未来を担う子供たちが安心して遊ぶことのできる場所として供えることこそが、天の警告にこたえる道であり、平和への確固たる決意を示すことであると考えたわけです。(片岡弥吉著、『永井隆の生涯』サンパウロ、1961年)

 そのような博士の聖堂にかける思いを想起しつつ、今日の世情とザビエル記念聖堂の崩壊と再建の動きを見つめるとき、ザビエル以来日本に押し寄せた三度にわたるキリスト教との出合いの波の意味を、改めて考えざるをえないのです。

 ザビエルの見た日本人は、理性的で倫理的に高く、今まで出会ったどの国民よりも、すぐれて神の民として備えられた民でした。名誉を重んじ、先祖を崇敬し、貧しい生活にも甘んじて、なお節度をわきまえる、そのような国民として報告されています。また妻を一人しか持たず、盗みを憎み、大変心のよい国民であると評しています。さらには、「神のことを聞く時、特にそれが解る毎に大いに喜ぶ」というのです。(河野純徳訳、『聖フランシスコ・ザビエル全書簡Ⅱ』平凡社、1994年)今日、世の中を見回すとき、当時のビエルの目に映った日本人が、どれほど見いだされるでしょうか。

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 次回は、「真の神殿であるイエス・キリスト」をお届けします。


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