2024.12.02 22:00
宣教師ザビエルの夢 70
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第五章 律法の精神と現代日本への教訓
五、祈り、規範、支柱としての律法
●十戒は私たちを映す鏡
ユダヤ教では、トーラー(律法)全体を暗唱し、常に覚えることが求められており、「十の戒め」は、ユダヤ人の骨の髄まで刻み込まれています。十戒の言葉をどのように生きるかということも、彼らの間では常に探究され、先人の知恵が蓄積されてきたのです。
キリスト教も同様に、神から与えられた戒めをひとまとまりにして覚え、機会あるごとに祈りとして唱えてきました。カトリック教会や聖公会の祈祷書には、「主要な祈り」として、「十戒」がしっかりと記されています。
「第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。第四 なんじ、父母を敬うべし。第五 なんじ、殺すなかれ。第六 なんじ、かんいんするなかれ。第七 なんじ、盗むなかれ。第八 なんじ、偽証するなかれ。第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ」(カトリック中央協議会編、『公教会祈祷文』中央出版社、1948年)
「主よ、我らをあわれみ、この律法を守る心を与えたまえ」(日本聖公会、『日本聖公会祈祷書』日本聖公会管区事務所、1959年)と祈る彼らもまた、その祈りを絶えず唱えることによって、生活の土台骨をつくり、キリスト者としての倫理・道徳観を養ってきたのです。
このような伝統をたぐりながら、一つひとつの戒めについて思いつくことをつづってきました。ここで、改めて第一から第十までをひとまとまりとして眺めてみると、キリスト教の伝統の中にある、人間始祖の堕落と救済のダイナミズムが浮かびあがってきます。
人類は神への愛と忠誠を失い、天の父への思慕を失い、両親に対する尊敬を失い、兄弟がいがみ合い、殺し合い、不倫を行うものとなったというのです。それゆえ、ねたみと憎しみ、情欲に身をやつす者となってしまいました。万物の霊長として被造世界を慈しみ治めるべき人間が、かえって環境を破壊したり、物欲のとりことなっています。だから、被造物は偽りの主人にかすめ取られてしまったというのです。このような人類に対して十戒は、「己の罪を覚えよ」とでも言うように、我々の今日の姿をあからさまに突きつけているように見えます。
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次回は、「十戒が投げかけるメッセージ」をお届けします。