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宣教師ザビエルの夢 71

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第五章 律法の精神と現代日本への教訓

五、祈り、規範、支柱としての律法

●十戒が投げかけるメッセージ
 では、突きつけられた当の人間は、どのように受け止めてきたのでしょうか。「我々はしょせん人間、弱きもの。罪人の一人にすぎないではないか」。そうつぶやく人がいます。「いくら律法が与えられていたとしても、古き律法は人間の弱さゆえに幾度も破られてきたではないか。だから律法を遵守(じゅんしゅ)するのは空しいものなのだ」と嘆く声が聞こえます。

 また、「だからこそ、この人間の弱さの一切を引き受けたイエス・キリストは、十字架の道を歩まれ、死をもって罪をあがなわれたのではなかったか。これこそが新しい契約なのだ。だから旧約の律法は捨てられ、イエス・キリストの十字架の救いを信じることによって、人々は新しい契約につながれ、その恵みの中に生きるのだ」と主張する人がいます。古い律法と新しい律法を鋭く対比させると、そのようなメッセージになるのでしょう。

 しかし、果たしてそうでしょうか。十戒が示す禁止と命令には、その背後に人間がこれまで求めてきた理想が隠されているように、私には見えるのです。この十戒を民に与えてくださった神の懐に帰ってみると、そこにはいまだ実現を見ていない、人間本来の姿と生きざまに対するイメージが、大切に保管されているのでしょう。

 律法は失われたものを一つひとつ想起させ、その悲しみを感じとり、元の喜びへと人々を誘う、神の呼びかけとなっています。ゆえに、神の言葉なのです。

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 次回は、「生命の言葉」をお届けします。


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