2024.11.29 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(184)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
16 結実時代
(巡回師認定講座より 1984年4月18日)
カイン・アベル関係
カイン・アベル関係で葛藤(かっとう)しないこと。欠点を見ない。愛でもって見ないと、人間関係はぶつかりやすいのです。骨と骨とでは音が出る。肉をかぶせたのは、肉を愛と見立ててです。だから、カイン・アベルは、どちらかが先に、それが歴史的に結ばれたと知ったなら、自分の生活圏に一番近い人に、どう接すべきかが問題になります。本当に無口で、本当に僕(しもべ)になって接するのです。同じ兄弟と思うよりもです。
一番近い人が怨讐(おんしゅう)になるのです。近い人がなぜ怨讐になるか、因縁も同じ、主管圏も同じ、組織的にお互いに方向も同じなのにです。それは、情的に合わないからです。
自分がどういうふうに影響しているか分からないから、各々まず、僕になろうとしなさい。この方法しかありません。ぶつからない方法は、自分が僕になる。積極的な立場に立たなくてはならない。そういう生活態度をとる。自分は先輩とか後輩とか、そう思う中に、怨讐はできてくる。自分は何々だ、と自分を肯定すると、たくさんの怨讐をつくるのです。本当に自分を否定した人は、相手がいじめても、褒めても、無視しても、相手にならないのです。
自分が自分を無視した以上、み旨しか知らない自分になった以上、どんな兄弟が自分を差別しても、減少感を感じる必要がない。自分を肯定したから減少感をもつのであって、減少感をもったとか、同じ兄弟の中で差別されたとか、そういうふうに目で見て、耳で聞いて、不快心をもつ者は、自分を肯定した人です。
そもそも減少感をもつこと自体、間違っている。同じ中で、差別するのは当然です。例えば、アベルである教会長が、教会長と通じない人よりも、通じる人とあいさつしたり、あとから来た人が、お土産を持っていったりすることがあります。そうすると、皆さんもその人を差別しますよ。
お母さんでも、自分の子供を二、三人もった場合、その中の一人が一番お母さんを抱いて何もかも心配するなら、お母さんの心もその子に引かれていってしまう。その子に特別に何か食べさせたり、特別にいいものを買ってやったりする。愛が来るから、愛が行くのです。だから、愛があまり来ない者を、お母さんは差別するのだということになってくる。お母さんでも、神様もそうです。
本当に神に感謝して、何もかも神様を褒める人を神様は愛するし、いつも「欲しい」と言う人は差別されるのです。「欲しい」と言う者は憎むし、神様にささげようとする者には、もっとやりたい。もらいたいのではなく、もっとやりたいのが親の心です。ある者にはもっとやりたい。ない者には奪いたい。これが親の心です。どうしますか。
だから、私たちにおいて、責任者が食口(シック)たちを差別せざるを得ないのは当然と思う。自分たちも差別する。そう思った以上は、何の差別があっても、何を褒められても、自分を否定していけば、褒められたからといって、いい気になって急に上がったり、差別されたからといって、下がったりしてはいけないのです。一度自分を否定すれば、喜んでも神が喜ぶのであり、褒められても神が褒められるのであって、自分ではないのです。いじめられても、当然自分はいじめられる人生だと思えばいいのです。そう思っていたのに、いじめられると気持ち悪く思うのでは、今までうそを言ったことになる。
皆さんも、自分は堕落したサタンの後孫だと言いながら、「サタン」と言われれば、気持ちが悪いですか。当然だと思わなければならない。当然だと思うのは、サタンではない。気持ち悪く思う、それだからサタンです。差別されても、そう感じない者は本物であり、差別したからといって気持ち悪く思う者は、だから差別されるべき者だ、とこうなるのです。
だから、カイン・アベルで、生活が一番問題であるということを、注意しなくてはならないでしょう。
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次回は、「復帰摂理が根本」をお届けします。