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宣教師ザビエルの夢 66

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第五章 律法の精神と現代日本への教訓

三、「盗んではならない」

●被造物の嘆き
 米国では、毎年11月の第四木曜日に「感謝祭」を祝います。1620年にイギリスからプリマスに到着した「ピルグリム・ファーザーズ」(巡礼父祖)たちが、冬を越し、初めて収穫した作物を神に感謝してささげたことを記念して、リンカーン大統領のときから、国民の祝日として祝われているそうです。それを通して、日々の糧や富も神から頂いたのだという心が養われてきました。キリスト教の主要な祈りである「主の祈り」では、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と唱えてきました。そうした祈りや祝祭を通して、自分たちが取り扱う被造物は、本来神から頂いたものであると心に刻んできたのです。そして不思議にも、初物(はつもの)を神にささげるという行為は、米国民に限らず、我が国でも、また世界各地でも行われてきたのです。

 律法はその冒頭に「初めに、神は天地を創造された」(『旧約聖書』創世記1・1)と記すことで、世界は神が造られたもの、被造物は本来、神の所有物であると理解してきました。人間は神の似姿として、この地を治めることを任されました。ところがパウロによれば、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んで」おり、今は「虚無に服し」うめき苦しんでいるといいます。(『新約聖書』ローマの信徒への手紙8・19〜22)こうした被造物の嘆きを理解し、解放していく手続きが、あるいは初物をささげることであったのかもしれません。

 ここで私たちは、重大な事実に気がつくのです。十戒が突きつけるこの命令「盗んではならない」は、まず私たち人間が神様のものを「盗んだ」という事実を明らかにするものだということです。そして、かりに被造物の嘆きに耳を傾けることができるならば、「神の愛で治めよ」という新たなメッセージとして受け取れるのです。

 人も物もぞんざいに扱ってしまう今日の我々にとって、まず被造物の嘆きに耳を傾け、苦しみに共感し、感謝の心で神の前に備えることがなければ、「盗むな」という教えは、いつまでも空しいままになってしまうでしょう。

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 次回は、「虚偽と貪欲に注意」をお届けします。


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