2024.10.28 22:00
宣教師ザビエルの夢 65
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第五章 律法の精神と現代日本への教訓
三、「盗んではならない」
●神への愛を表す教え
そこで律法の中心に帰ってみると、「盗むな」という教え一つとっても、これは決して人間関係の教えとしてのみ提示されているのではないようです。律法の中心はまず「神を愛すること」であり、それに伴って「隣人を愛すること」が出てきます。これは別々のことではなく、表裏一体をなすものではないかと思われます。いわば、神を愛することは隣人を愛することであり、隣人を愛することによって、神への愛を表すことです。ですから隣人愛の教えは、ただ人間関係の倫理としてだけとらえていては、何の意味も力も発揮しないのではないかと思うのです。
かつて第2次世界大戦中、ナチスの政権下でヒットラー暗殺計画にかかわったとして逮捕投獄され、処刑されたボンヘッファーは、神への信仰によってこの世の悪に抵抗したといいます。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」(『新約聖書』ペトロの手紙Ⅰ、3・9)ただ裁き主であり、悪を拒否される神にゆだねることによってしか、この世の悪を克服することはできないという姿勢を、死に至るまで貫いたのです。
そのような観点で十戒を見直してみると、「わたしは主、あなたの神」(『旧約聖書』出エジプト記20・2、申命記5・6)という冒頭の言葉が、より強くより広く響き渡るのです。そしてそれは、隣人愛の教えの一つ一つにも反響させることができそうです。「わたしは主、あなたの神」だから「盗んではならない」というように。
そのように見てみると、「盗んではならない」というとき、他人の所有物ばかりか、神の所有物を盗んではならない、という命令にまで、その意味を深めていかなければならなくなるのです。
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次回は、「被造物の嘆き」をお届けします。