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共産主義の新しいカタチ 33

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

ライヒとフロムからフランクフルト学派へ
ウィルヘルム・ライヒ➁

▲ウィルヘルム・ライヒ(ウィキペディアより)

「精神分析」へと駆り立てる「事件」
 1920年頃、ウィーン大学でフロイト派精神分析に触れ実践していたライヒは、「思春期における近親姦タブー突破の一つの事例について」なる処女論文を発表します。ここでライヒは、心理メカニズムの症例としてある患者の治療に当たったと書いているものの、その「患者」こそ実は自分自身だったこと(つまり自己分析)を、後に自分の長女に話したのです(『W・ライヒ』)。同論文はカムフラージュされてはいるものの、「決定的な細部はライヒが人に話した内容と正確に一致している」(前掲書)とみられます。

 それは猜疑心の強い父の嫉妬が的中し、ライヒが12歳の頃、家庭教師と母との不倫の現場を目撃し、その事実を父が知り、母は服毒自殺。母の死後、父は鬱(うつ)状態になり3年後に死亡。ライヒ少年は「自ら両親を死に追いやった」との呵責(かしゃく)が、彼の「心的外傷」として生涯に影を落とします。ところが良心の呵責だけではなく、同時に母への「近親姦」願望(フロイトのエディプス・コンプレックス説にライヒ自身が納得)が、ライヒの特異性・異常性と言え、先輩分析者によるライヒの「教育分析」が幾度も中断されました。

 父の死後は農場を受け継ぎますが第一次大戦で農場は壊滅、ライヒはオーストリア軍の中尉として従軍。1918年に復員したものの、両親と農場を喪ったライヒは、弟と交代で仕事に就くなど、苦学生活を送りました。ウィーン大学の法学部から医学部へ転部、退役軍人から4年で卒業します。

 ウィーン大学でライヒはフロイトの精神分析に出会い、その「使徒」となります。学派の総帥であるフロイトは、「ウィーン協会で最も頭がきれる男」と評価し、俊秀のライヒを第一助手、後に副所長として起用します。それは他の弟子らの嫉妬も誘い、やがてライヒは、フロイト自身とも決定的に袂を分かつことになります。

 つまりライヒ自身は後に「フロイト文化哲学の批判」を記します。

 「フロイトの文化哲学の立場はいつも、文化は本能を抑圧し拒否することによって成り立つ、というものだ。根本的な考えは、文化的成就は性のエネルギーを昇華した結果だというものだ。これは論理的には、次のように続く。文化の発展には性を抑制し抑圧することがなくてはならないものだ。こういう公式が正しくないのは、歴史的な証拠からも言える。それから、性の抑制など全くなく、完全に自由な性の営みをしていて高度な文化を持った社会が現存している。

 この理論で正しいことは、性を抑圧することが大衆心理的な基礎になり、ある種の文化、つまり家父長的権威主義文化を、そのいろいろな形すべてにわたってつくっている、ということだ。間違っているのは、性の抑制が全ての文化の基礎だ、という公式だ。どうやってフロイトはこういうふうに考えるようになったのか? 明らかに、政治的な意識的な理由のためでも世界観のためでもない。それどころか、『文化による性道徳』について書いたような初期の著作は、はっきりと性革命が必要だという立場から文化を批判するという方向を示していた。ところがフロイトは、こういう方向には進まなかった。それどころか、こういう方向に向かうような試みにはどれにも反対し、一度は、『精神分析の邪道』と呼んだりもした。フロイトと私の間にどうしようもない意見の違いが起きたのも、まさしく、私が初期の試みで文化批判を一緒にした性政策をめざしたためだった」(『性と文化の革命』)

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大衆向け「性政治」を実践
 マクレラン著『アフター・マルクス』では、ライヒが「女性と子供を味方にしようとした」と記しています。実際、当時の左翼運動というのは、プロレタリアートの権利やブルジョアとの階級闘争といった観点が主要な闘争目標であり、一般の中産市民にとってはついて行けない世界でした。それを、万民共通の関心事であり、共闘目標たり得るとライヒが提唱したのが、「性政治」(ゼクスポル)と「性経済」(ゼクスエコノミー)という概念でした。

 具体的にどういうことかと言えば、このうち「性政治」とは、家族・結婚・出産に関する諸政策であり、実質的には婚姻制度の解体、家父長制的伝統の解消、避妊具の配布と避妊知識の啓蒙を通じた避妊や堕胎の自由化、「婚姻制度」ではなく「持続的な愛情関係による性交渉」を基本とするものでした。

 この点について、前述のM・シャラフ著『ウィルヘルム・ライヒ〜生涯と業績〜』では、次のように説明しています。

 1920年代前半からライヒは様々な素人集団に対して精神分析の諸問題について話をしていた。しかし1927年に、彼はこの努力に対して自分自身不満を感じていた。人々には、例えば去勢コンプレックスといった複雑な心理学的問題がわからなかったのである。労働者たちは普通に言われているような精神分析に対して反応しなかったが、左翼の諸政党から示される純粋に経済学的な分析にも背を向けていた。彼らの興味を捉えるためにライヒは、彼ら自身の情緒的な欲求に関連のあるものに目を向けるように彼らを刺激する観点を求めた。…

 その一つのやり方は、話のテーマを精神分析のより理論的な側面から人々の性生活という具体的な問題に変えることであった。ここでライヒは後に『ゼクスポル』つまり『性政治』運動と呼ぶことになるものを始めたのである。それは複雑な理論的かつ実践的な努力で、第一に性の問題を抱えている大衆を助けることであり、第二に、正常な愛情生活を営みたいという性的欲求を、より大きな革命運動の枠組みの中で意味のある政治的問題にするということであった。性政治と育児の問題は、大衆の間に熱烈な関心を呼び覚ました」(続く)

「思想新聞」2024年9月15日号より

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