2024.10.02 17:00
共産主義の新しいカタチ 32
現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)
ライヒとフロムからフランクフルト学派へ
ウィルヘルム・ライヒ①
文化共産主義において重要な「柱」の一つとなっているのが、「性解放」の思想です。宗教や道徳という観点を除いてフロイトにおいて初めて「性」の持つ重要性がクローズアップされるに至りましたが、それを「性解放」を具体的に共産主義政府の政策として実践しようとしたのが、ウィルヘルム・ライヒ(1897~1957)です。
「異端中の異端」とされた共産主義者
ライヒはユダヤ系オーストリア人ですが、「フランクフルト学派」には属しません。共産党員にしてフロイトの下で精神分析を修めた「弟子」ですが、共産党からもフロイト派からも除名された、まさに「異端の共産主義者」でした。ライヒは戦後、活動の場所を求め渡米。ところがここで「性エネルギーと宇宙エネルギーを融合」するという「オルゴノミクス」理論を唱え、「採取装置」まで開発。このため怪しげな理論と装置で人々を惑わす「マッド・サイエンティスト」とされ1957年、獄中で憤死したとされます。
ところが1960年代に入り、ボリシェビズムすなわちソ連型共産主義が「スターリン批判」として実態が暴かれると、モスクワに背を向けた「ユーロコミュニズム」(=西欧マルクス主義)が注目を集め、世界的な学生運動の原動力となります。そこで大きな位置を占めたのは「フランクフルト学派」の思想です。フランクフルト学派とフロイト学派を結びつけたのは、実はフロイトの弟子であるライヒであり、エーリッヒ・フロムでした。
この1960年代、左翼学生たちを魅了し「カリスマ」となったのが、「3M」と称された人々です。すなわち、中国の若者を「紅衛兵」として扇動し「文化大革命」の偶像ともなった毛沢東であり、ハイデガーの弟子からフランクフルト学派に「転向」し「反戦・性の解放」を唱えたヘルベルト・マルクーゼ、それに共産主義の「大本」であるカール・マルクスでした。
「性解放のバイブル」として「復活」
マルクーゼの性解放思想が米国を中心に一大センセーションを巻き起こすと、改めてクローズアップされたのが、ほかならぬライヒの『セックス・レボルーション』(中尾ハジメ訳=『性と文化の革命』勁草書房)でした。
1960年代末、現代日本の代表的な劇作家・寺山修司がドイツの大学で経験した印象を、次のように記しています。
「SDS(社会主義ドイツ学生連盟)の学生たちと酒場で飲みながら議論していたとき、彼等がしばしば引用したのはライヒの『セックス・レボルーション』の中の一節だった」と証言し、「ライヒは、政治的解放が所詮は『部分的な解放にすぎなくなってしまった』時代にあって、真に革命的な思想家である。…フロイトが精神分析によって言語化するにとどめたものを、よりアクチュアルな実践を通して社会化していったライヒは、ありありと今日有用の思想であると言っていいだろう」とし、ライヒをフロイトの「枠組み」を超え「革命」への実践と結びつけた思想家として最大級の評価を与えています。
寺山は今では高名な劇作家にして詩人と見なされますが、彼の主宰する演劇などは、過激で実験的な「アングラ」に類するもので、唐十郎らと共に「アングラの四天王」と呼ばれました。
ベルリンで「思想融合」の開拓を企てる
ライヒとフランクフルト学派との関わりについて触れると、フランクフルト学派における「フロイト受容」は、ナチズムを分析した『自由からの逃走』で知られるエーリヒ・フロムが「仲介者」となります。フロムが直接フロイトの「直系の弟子」ではなく、最初の妻フリーダ・ライヒマンを通じて精神分析を知ってからでした。
フロムが結婚後、夫婦関係と精神分析の師弟との両立が不可能と考え、助手を務めていたウィーンのフロイトを離れ、ベルリンで「精神分析研究所」を主宰するライヒに師事し、「分析医としての修行」を積んだのです。フロムの「ベルリン時代」こそ、「マルクスとフロイトの思想的融合」を試みたライヒの最も華々しい時代でした。(続く)
★「思想新聞」2024年9月15日号より★
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