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心情開拓
心霊を育てる生活原則(175)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』〈200549日第3版発行〉より)

15 苦痛の中での信従

▲李耀翰先生

死を越えて蘇生した真の自我

 アブラハムの運命を見るとき、神はイサクを与えましたが、与えた息子を再び祭壇にささげるように命じました。神様が祝福をして、再び取り去ったのです。ヨブにも神様は財産を与え祝福しましたが、再び奪い去りました。ヨブは、息子もまた命までも神に与えましたが、みな奪われたのです。そこでヨブは言いました。「神は祝福を与えることも取り去ることも、生命を与えてから、死を授けることもできるお方です」と……。ヨブは本当に忠実に神に信じ従った人でした。真の自己というものは、与えて奪い取るとき蘇生するのです。神様に再び返せと言われる時、「なんだ、いつかはくれたではないか」と、自我が頭をもたげてくるのですが、その時、「はい」と応じる人こそ自己を無にすることのできた人です。

 生命を差し出せと言われるときには、「はい」と即座に応じるべきです。神様が創造なさった生命です。堕落性だけに苦痛の要素が潜んでいるのではありません。神が取らんと欲する時躊躇(ちゅうちょ)することなく、従うことこそ正しい十字架を負うことだということができます。

 せんだって福良さんが、本当に驚くべき話をされました。それは、彼の夫人がこの世を去った時の話でした。彼はその瞬間慌てふためいて、夫人の死体の前でおののいていました。祝福されたのちに死ぬなどとはとても信じられなかったからです。彼は全身の力が抜けるほど打ちのめされたとのことです。

 永遠なる祝福を受けたはずなのに、なぜこんな惨めな結果に終わるのだろうか、既に魂のこと切れた妻のなきがらを見ながらも、絶対に死ぬということはあり得ないと彼は信じていたので、最後に「これ以上望みがありません」と宣告されると、気が遠くなったと言いました。

 何時間か苦痛の中で身もだえしているうちに、先生の事情と苦痛を思い、今の自分の現状とを結びつけてみたとき、初めて自分の心に新生復活の光が差してくるのを覚えたとのことです。先生こそ私の苦痛を救う方であり、救われてみて、先生こそ偉大なるお方であると思ったそうです。苦痛の中を通り抜け、新生復活して初めて先生の真の偉大さを悟ったという、貴重な証(あか)しを聞きました。

 また彼は、神様の苦痛が内的に私自身の苦痛として相通じるとき、初めてその苦痛圏内から抜け出すことができ、その喜びは言いようがなかったと言っておられました。

 私はここで、あいさつの言葉には最も気をつけなければならないことを感じました。悲しんでいる家に行って、天国に行かれたと喜ぶわけにはいきませんし、慶事を営む所で、悲しいことですねとも言えないからです。慶弔の場では、注意深くあらねばなりません。

 葬儀の時、福良さんの心情を知らない多くの人はみな、顔をこわばらせていましたが、彼は先生の苦痛とぶつかり合って、死という暗黒の中から復活の光を得ることができたのです。

 きょう私がこの話をするのは、私の苦痛と神様の苦痛が結び合わされる時こそ、神様の愛による復活がなされるからです。全人類の苦痛をすべて集めたとしても、神様の苦痛は比較にならないほど大きいものですが、苦痛をより多く経験した人こそ、神様の重荷を負うことができるのです。

 子供の悲しみが母の懐で解決されるということは、お母さんの愛情の温かさが真実なる力をもっているからです。これと同じように今日の人類のすべての苦しみも、神の苦痛と置き換えられたとき、初めていやされるということです。

 福良さんは、苦痛の領域から愛の世界に入りました。これが本当の復活です。これは自分が求めて得ることのできた愛であり、苦痛の中を通って神の愛を探し出した人です。

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 次回は、「先生が御夫人を褒められた三点」をお届けします。


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