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心情開拓
心霊を育てる生活原則(174)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』〈200549日第3版発行〉より)

15 苦痛の中での信従

▲李耀翰先生

復活した自我を否定する

 私たちはこの苦痛を経て初めて、新しい生命が芽生えてきます。これが第一の復活です。信じて従って、復活した自分を聖別し、堕落性を分別してみ言(ことば)の生命を受け入れるとき、苦痛の束縛から完全に解かれて安らかな心境に到達することができるのです。そして、復活した私はそのまま自分を保つだけでは何にもなりません。神様は復活した私を再び殺せと言われました。天によって復活した自我を再び否定せよと言われました。これは全く気が遠くなるようなことです。

 堕落性の自我を否定することは容易なことですが、復活した自我を否定するということは至難のことです。また、否定せよという意味は何かというと、イエス様は罪のない方でしたが、己を捨てて十字架を負われました。それは次元の高い苦痛であり、絶対服従の否定でもありました。

 洗礼ヨハネの歩んだ道を見てみると、彼は聖霊の導きによって天の父のみ旨のために献身した人でしたが、イエス様に会ってから再び、自己を捨てなければなりませんでした。このように、洗礼ヨハネがもう一度自我を否定しなければならない壁にぶつかったわけは、イエス様に会うこの日までは新生した人間としての自己だったのですが、イエス様の前では再び自我を否定して越えなければならない段階が残っていたからです。

 私たちもみ旨の前で自分を否定して入信したのですが、再び、自分を否定しなければならないときがあるのです。祝福を受けたとしても私たちは再び自己を否定しなければならないのです。

 ヨブは、天の父のみ名によって祝福を受けたのですが、全財産を失い、子女たちの命まで奪われました。なんといういたわしいことでしょう。ヨブにはいったい何の罪があったのでしょうか。それは、ヨブがサタンと天の前で、供え物となる時だったのです。イサクの献祭、イエス様の十字架等の問題も「死なんとする者は生きん」ということなのです。信仰の道は、常に自己否定の道であり、自己肯定を自認してはいけないのです。

 「私に何の罪があるのか、私は神様のために生きているのに……、私が少しでも私利私欲のために生きるというならばいざしらず、私は神様のために生きるのだ」と、強調するならば、再び天の前で否定されることになります。ペテロは、「私は妻も舟も、そして恥までも捨てて主に従いました。なぜ主に反逆することなどありましょうか」と誓いました。しかし、イエス様は「お前は私を否む時があるだろう」と言われました。ペテロは、自分だけはすべてを捨てて生死を主と共にする心情であったのですが、まだ自分というものを心の片隅にもっていたのです。

 また、洗礼ヨハネもそうでした。自分だけはいなごを常食しながら、完全にみ旨のために生命をささげるものと思い込んでいましたが、イエス様の前に立った時、自我というものがのし上がってきたのです。恵みを受けた自己。使命的な自己。証人としての自己。天の父の証(あか)しのために、また、み旨のために尽くしたという洗礼ヨハネさえも、イエス様の前で自己を否定できず、自我を捨てきれなかったのです。

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 次回は、「死を越えて蘇生した真の自我」をお届けします。


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