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心情開拓
心霊を育てる生活原則(173)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』〈200549日第3版発行〉より)

15 苦痛の中での信従

▲李耀翰先生

いばらの中に臨在された神

 このような苦痛の神様の言葉の本質とは何でしょうか。旧約時代の神様は、いばらの藪(やぶ)の中からモーセに顕現されましたが、それは直接的に神様の苦痛を表現できないため、このような象徴的表現をとって神様の心情を表示したのです。苦痛を語ることなく摂理を進めてこられた先生の言葉には、本質的に苦痛が内包されています。ですから、私たちが天のみ言(ことば)に従うとすれば、当然だれしもが苦痛の路程をたどるようになるのです。

 本質的に神様を知らない人は、これが神様に良いことだと思って信仰しても、その実、神様と正反対の道を歩んでいたために、ついていけなくなることもあります。イエス様の生涯を見ても分かるように、イエス様は苦痛を抱いて悲しみを耐えてこられた方ですが、人類への悲しみのためにイエス様御自身の存在が薄れたというか、表現できなかったというか、息子の苦痛のために父母の苦痛を言いそびれたのです。人間の苦痛のため、神様は苦痛を話せなかったのです。

 イエス様の生涯を見れば、イエス様の周りに群がり集まった人たちは、イエス様が苦痛を負って来られた方であることも知らず、栄光と権限と能力をもって来られた方であり、遠からずして必ず栄光の主になられるものと思って従ったのでした。過越(すぎこし)の祭(まつり)の場面を見ても、弟子たちは飲食しながらただ楽しむ日であるとしか思っていなかったし、イエス様の苦痛を感ずる者は一人もいませんでした。そして、マリヤが慟哭(どうこく)する時にも、皆はその真意を悟ることもできませんでした。

 私たちも先生に従うとき、喜びにあふれ、素晴らしさに血が沸く時もありましたし、先生を通じて刺激を受けることを願っていました。そして喜びを受け、力を受け、恵みを受けようとばかりしていました。だから実際の先生を本当に知らなかったのです。先生はみ言を語る方であり、恵みを授ける方で、いかなることにも勝利なさる方であり、すべての憂いも心配もないお方で、私たちの重荷をも全部引き受けてくださる方であるとばかり思っていました。それゆえ先生は、私たちにも事実を話せなかったのです。『原理講論』の復帰原理を見ても、すべて蕩減(とうげん)復帰の言葉のみで、先生の私語は一言一句も入っていないのです。

 以前日本で発刊された家庭誌に、先生の聖婚記念日についての記事が載っていましたが、内容は御夫人の証(あか)しでした。御夫人が誕生以来、受けた啓示、天において、「この方こそが真の天宙の母である」との証拠が多くの霊通者たちに示された話でした。その後、御夫人は多くの難事に耐えねばなりませんでしたが、見事に勝利されて、先生からも「絶対に服従し、耐え忍んでくれた」とのお褒めのみ言を頂いた証し等でした。このように、初めて御夫人を表面に立てて証しをされるようになったことを見るとき、これからは先生も語るべきことは必ず語らねばならぬ時代に入っていると感じられます。

 先生は、父親としての心情をもっていても、今まで真の息子がいないために、語りたいことも語れなかったのです。皆さんは神様の本当の息子になっているでしょうか。息子でない人に、どうして心情を話せましょうか。夫婦の間で話すこと、息子に話すこと、従兄弟に話す内容はおのずから違うものです。神様もそうせざるを得ませんでした。イエス様も苦痛を抱いてきましたが、だれにも話すことができませんでした。先生もイエス様の苦痛と、虐げられた悲惨な頷末(てんまつ)と、神様の悲しみをお話しされました。先生は、神様とイエス様の苦痛の事実については数限りなくお話ししながらも、御自分のことは一言もお話しされませんでした。ただ、お前たちのために神様はこんなに悲しんでおられるのだ、お前たちがイエス様をこんなに悲惨な状態に追いやったのだ、とお話ししてくださいました。

 私たちは今後どのような段階へ進まなければならないかといえば、原理の本質そのものが私たちに与えるものは、イエス様の苦痛であり、神様の悲しみです。これを継承して復活する時に、初めて天の父の「私の悲しみを継承したお前こそ我が子である、お前にしか話す人はいないのだ」というみ声を聞くことができるでしょう。

 三番目に、私たちは主の苦痛をいかに理解し、信じ従うべきかを考えてみました。私たちは、堕落性を主管し、本性を中心とした苦痛に出会ってみなければなりません。私欲を捨て、本然の欲望に転換しなければならないということです。これが最初の苦痛です。すなわち自分の私情を捨て、み言に献身するところに大きな苦しみがあります。自我を否定する苦痛と、み言による自己肯定の矛盾が、心理的苦しみを倍加させるのです。

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 次回は、「復活した自我を否定する」をお届けします。


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