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宣教師ザビエルの夢 59

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第五章 律法の精神と現代日本への教訓

一、「殺してはならない」

和解の要請
 イエスは、山上の説教の中で、この律法を取り上げています。(『新約聖書』マタイ福音書52126)そこでは、殺人に対する禁止という文字どおりの理解はもちろんのこととして、さらに兄弟の不和に対する戒めにまで話は及んでいます。イエスは、兄弟に対して怒る者、ばか者呼ばわりする者、怨みを買うようなことをした者に対して、和解を命じています。神との和解の前に、兄弟隣人との和解が必要であるとの戒めになっています。このイエスの律法理解をみると、律法の初めにさかのぼって、人間始祖の家庭に起こった最初の殺人、カインとアベルの問題を想定しているように思えます。

 それは、最初の兄弟間に起こった「殺人」という、結果的行為だけの禁止にとどまらず、殺人に至るまでの嫉妬(しっと)や憎しみ、怨みなど、敵対する兄弟の間に横たわる感情の清算をも迫る教えとなっています。

 その教えは、日常の人間関係の中で兄弟に怨みや憎しみを抱く者は、人殺しをしているのと同じだ、とでもいわんばかりの厳しさです。この厳しさを真正面から受け止めてきた選民は、兄弟への慈しみ、寛容を常に心掛けてきました。伝統的なキリスト教会では、キリスト者は神の恵みによって神を愛し人を愛する徳を与えられ、それを基として節制や忍耐といった倫理的生活をすることができると教えてきました。

 また、この教えを理解するキリスト者は、教派や宗派間の和解へと、思いと行いを向けてきました。兄が弟を「殺してはならない」のと同様に、ユダヤ教はキリスト教を、キリスト教はユダヤ教を「殺してはならない」のだと理解します。

 さらに想像をふくらませれば、一方でユダヤ教の存続を許されながら、一方ではキリスト教を設立せざるをえなかった神の思いはどのようなものであったか、その痛み、悲しみをくみ取っていかなければならないでしょう。そして、ユダヤ教とキリスト教の間に立ち、これらを一つに結ぶために来られた、救い主キリストを「殺してはならない」ことを意味しているようにも思えるのです。

 「我らの救い主メシアを殺してはならない」

 復活祭を迎えるまでの40日間を、四旬節の期間として過ごすキリスト者は、一様に悔い改めの心を抱いて祈ります。そのとき彼らは、かつて人類はその救いのために神から送られた救い主を拒絶し十字架にかけた、という重大な問題を見つめているのです。二度と再び「殺してはならない」。それが彼らの祈りです。

 こうして、兄弟の和解の要請は、神と人類との和解の要請へと高められていきます。

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 次回は、「殺人は姦淫の実り」をお届けします。


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