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宣教師ザビエルの夢 57

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第四章 ユダヤ・キリスト教の真髄

六、「これらのことばを心に留め、語らなければならない」

トーラーの三つの意味
 では、紀元1世紀当時にさかのぼって今日まで、ユダヤの人々の生活の中で、トーラー(律法)はどのような意味を持ってきたのでしょうか。サフライ氏は次の三つを挙げています。

 第一に教育の土台です。子供たちは、トーラーを朗読できるようになるため学校に通い、大人たちも日々繰り返しこれを学びます。第二に法律の発想源だといいます。トーラーは個人と共同体の法律というよりも、それを生み、発展を促す創造的刺激、世に法の制定を駆り立てる神の言葉なのだというのです。そして何よりも、トーラーは礼拝の中心的手段でした。会堂ではトーラーが朗読されることをもって礼拝とし、そこで彼らは神の臨在を感じてきたといいます。こうしてユダヤの民は、トーラーを命の源と考え、信仰生活の種としてきました。(S・サフライ著、カトリック聖書委員会監修、『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』サンパウロ、1995年)

 「トーラーを学べば学ぶほど、生命は増し加わる。トーラーのことばを自分のものにした者は来る世の命をその身に獲得したのである」とは、古いラビの伝承です。(A・コーヘン著、市川裕、藤井悦子訳、『タルムード入門Ⅱ』教文館、1997年)

 トーラーはあらゆる機会をとらえて学ばれ、語られ、そして教えられてきました。人々が食卓を囲むとき、もしトーラーについて話し合うなら、その会食は神へのいけにえとなると理解しました。かくして「神のみことば」は人々を生かし、日常生活を支え、国土を持たぬ民のサバイバルをも許してきたのです。そればかりか、世界の文化に規範を与え、後に生まれる新たな宗教伝統にさえ骨格を与えてきました。主日のミサごとに「みことばの祭儀」を執り行うキリスト教は、これを受け取ってきたのです。

 このようなトーラーの意味を定着させるのに多大な貢献があった賢者ヨハナン・ベン・ザッカイは、滅びいく聖都を仰ぎ見ながら、こう叫びます。

 「エルサレムなしで、神殿なしでユダヤ教を救おう」

 彼は崩壊したエルサレムを離れ、ヤムニヤという町にトーラー研究の拠点を構え、その後のユダヤ教復興に尽くしたのです。

 トーラーの中に、次のような言葉があります。

 「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(『旧約聖書』申命記667

 これはユダヤ人にとって、「シェマアの祈り」という主要な祈りを構成する一節であり、イスラエルの信仰告白ともいわれる部分です。彼らが絶えず祈り、宣言してきた内容は、「みことばを心に留めること」、「これを断(た)えず語り聞かせること」に中心が置かれています。

 苦難の歴史を生き延びてきた人々の底力は、ユダヤ・キリスト教の伝統に根ざした、こうした「ことば」へのこだわりにあったということが分かります。

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 次回は、「『殺せ、殺せ』の叫びに抗して」をお届けします。


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