2024.08.30 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(171)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
15 苦痛の中での信従
〔また、ほかの譬(たとえ)を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』〕。
(マタイによる福音書第13章24〜28節)
苦痛を正しく理解する
きょうは聖書の「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分自身の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16・24)という聖句を中心として、「苦痛の中での信従」という題でお話しします。信従とは、文字どおり、信じて従うということです。
「苦痛の中での服従」という題を選んだほうが、皆さんも理解が早いでしょうが、服従とは多少意味が違うので、あえてこの題でお話しすることにしました。
私たちは苦痛という問題を信仰路程において正しく取り扱わなければならないということを自覚し、苦痛は神のみ声であり、神様の啓示であるということを再三感じながら、今日まで苦労を越えてきたわけですが、再びここでお話しするのは、苦痛というこのことをより正しく理解しなければならないことを実感したからです。実際に、苦痛を間違えて扱えば、苦痛が苦痛としてのみそのまま続きます。そうする限り、このような苦痛を通しては生命のきずなにつながらないことも知って、私たちは苦痛のもつ意味を正しく理解しなければなりません。
「汝(なんじ)自身を捨て、十字架を負って我に従え」と言われるときの十字架は苦痛であり、苦痛は罪であり、その罪は堕落性です。十字架とは何かというと、それは堕落性であり、その堕落性のために苦痛が来るというのです。私たちが堕落した結果として、神に苦痛を与え、イエス様に十字架を負わせ、先生を悲しませ、いばらの道をたどらせたという事実を、私たちはよく知っています。しかし、自己を捨てて自らの十字架を負っていくということは本当に難しいことです。捨てようか、拾おうかと迷いつつ、自己の十字架を負う心が、果たしてそれが自分の十字架なのか、また堕落性なのかという分別がつかないため、私たちは真の人間になれないのです。正当な道だと思って歩んできたはずなのに、真実を知ってみると、そこに堕落性が潜んでいたのです。カインは、自分が正しいと思い込んでいましたが、覚めてみると、堕落性にとらわれていたし、ハムも、またイスラエルの民も、そうだったのです。このように今日まで自分の十字架を負えず、天を悲しませてきた不信の歴史を考え、私たちは、果たして自分の負うべき十字架を見いだしているのだろうかと自らに問う、その自覚が大切なのです。
私は自分の十字架を発見しているのだろうか。創造本然の私と、堕落した私を正しく分別することのできる私であるのか、という自覚が要求されるのです。ここで感ずることは、実際に恵みを受けたという人々の中に、自分という堕落性が多いというのです。今日まで、聖霊の恵みを受ければ新生するものと信じていましたが、聖霊を受けたという人々に堕落性が著しいのはいったいなぜでしょうか。選民イスラエルがイエス様を殺したように、信仰の篤(あつ)い人々が同じ篤信者を打ち殺し、本当に良い信仰者だという人たちが今、私たちの先生を憎むのです。
「自分の苦痛を背負い、主の苦痛を負って従わない者は、私にふさわしくない」。自分の十字架を負い、主の十字架を負って従ってこない者は、主に受け入れられない者です。「自分の十字架を負い、私について来る者こそ私にふさわしく、自分の父母より、自分の夫や妻より、そして自分の命よりも私をより愛する者こそ私にふさわしいのだ」とイエス様の語られたことの反対に、私たちは自己の苦痛を捨て、主の苦痛を負って、主に従っていかない者は主にふさわしくないということを肝に銘じなければなりません。私たちはできれば自分にのしかかる苦痛を避けようとして、「苦痛が来なければいいなあ」と、いつも心では願っているのです。
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次回は、「苦痛は神の愛である」をお届けします。