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心情開拓
心霊を育てる生活原則(168)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

14 幸運な者、ヨセフ

▲李耀翰先生

獄中でも同僚に感動を与えたヨセフ

 それと同じことが起こったとしたら、私たちはどのようにするでしょうか。神が私と共におられ、自分は公的な目的のために生きる自分であると考えているにもかかわらず、突然そのような不慮の出来事に出遭ったとしたら、私たちの心はどうなるでしょうか。エレミヤは、神に抗議しました。「あなたが言われたとおりに預言をした私を、どうしてこのように苦しめるのですか、あなたがこのことを行わせて知らぬふりをしているのですか」と言いながら、悲しくて抗議の祈祷をしたことがあります。しかし、創世記第3920節を見ると、ヨセフは獄中にあっても一言の不平を言うこともなく、罪人たちに憐(あわ)れみと慈悲を施し、神が共におられることを証(あか)しました。

 このようにして見ると、神が人間を捨て、さらには困難に遭遇させたときにこそ、他人に憐れみを施すことは重要なのです。神が愛し、神が共におられることを実感しているときに、他人のために尽くすのはだれでもできます。しかし、捨てられた立場で他人のために尽くすのは難しいのです。十字架上で怨讐(おんしゅう)のために祈祷されたイエス様は、苦しみに出遭う人の鑑となったのであり、獄中で苦しみを受けながらも仁慈のゆえに、同僚たちに感動、感化を与えたヨセフは、真の人だけがなすことのできる仕事をやり遂げたのです。

 獄中でもヨセフは、ただ「自分の行くべき道を行く」と考えたに違いありません。この道でなければ夢をかなえることができないと、神との誓いを忘れなかったに違いありません。天は私を捨てても、私は天を捨てることができないというヨセフです。「神はうそを言われない方であり、神は約束を捨ててしまう方ではない」とヨセフは信じたのです。そうでなかったとしたら、他人のために尽くそうとする力が出なかったはずです。

 このようにして、ヨセフは困難な三つの峠を越えました。やがてヨセフに確固とした中心が定まったとき、神が現れて、共に働かれるということを見せてくださいました。ヨセフに対して、ある期間までは神が対することができなかったのですが、ポテパルの家で休むことなく働き、周囲の認定を受けるようになったときに、神が対し始めました。獄中にあっても希望をもち、憐れみと慈悲を施したとき、神が共におられました。

 ここで私たちは、「ヨセフのように幸運な者となるためには、苦難の道を越えずしては訪れてこない」ということを学ばなくてはなりません。人はだれしも、恨みに思う、悲しい、口惜しいことがあるものです。公的な立場で進めば、必ず汚名を着せられます。

 米を買いに来た兄たちに会い、声をあげて泣いたヨセフの心には、どれほどのつらい思いがよみがえったでしょうか。ヨセフの涙の中には、言うに言えない過去の恨みが漂っていたに違いありません。聖書には、神が共におられたという話があるのですが、その傍らには悲しみが多くあり、胸の痛むことが多くあり、独り心を悩ませることが多くあったことを知ることができるのです。ヨセフは、自分の家庭においても、ポテパルの家においても、悲しみの道を行きましたが、その家庭とエジプトの国に幸運をもたらしたのです。

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 次回は、「悲しみに出遭っても大きな希望をもつ」をお届けします。


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