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宣教師ザビエルの夢 53

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第四章 ユダヤ・キリスト教の真髄

四、「私のほかに神はない」

問いかける御方
 かつて学生時代に、友人らが私に向かってささやきました。

 「おまえは神様、神様というけれど、その日その時、ホッとさせてくれるものがあれば、それを神と呼んでもいいじゃないか。一息ついてお茶を飲み、ホッとするとき、そのお茶が自分には神なんだ。そのとき、心に平安を得させてくれるのだから」

 その友人の言葉を耳にしながら、悲しみを覚える日々がありました。単に心に平安をもたらすためだけのものを、私は神とは呼ばない。心の声がそう叫ぶからでした。

 そんなとき、私はイスラエル民族の荒野での内的格闘を思いました。自らが慕い求めてきた御方は、心に安逸をもたらすとは限らず、時に恐れを起こさせ、自己の全存在を賭けなければ応えることのできない、絶対的な問いかけをもって迫りくる方ではないか、と。それは、相対することのできる人間を捜して、あるいはわが子をたずね求めて真剣な応答を迫る方であって、それこそイスラエル民族がシナイの山で対面した唯一なる存在だったのだろうと思うのです。

 ユダヤ教においても、キリスト教においても、信仰箇条の第一は、神の存在を信じ、神が唯一であると信じることです。そのような信仰を保持してきたのは、イスラエルの民がシナイにおいて明かされたごとく、自らにも神が語りかけ、語りかけを聞いた私の応答を求めておられる方だと知ったからです。

 こうして、シナイのふもとで民が受けた言葉は、神と人間の対話的関係へと選民を引き入れたのです。そして生きておられる神は、選民を通して、絶えず人類に語りかけてこられたのです。

 かつて宗教哲学者マルティン・ブーバーは、世界は人間のとる態度によって「われ—なんじ」「われ—それ」の二つになる、と言いました。そのとき、「われ—なんじ」がより根源的なものであると主張しました。(マルティン・ブーバー著、植田重雄訳、『我と汝・対話』岩波書店、1979年)

 律法の初め、神は絶対的な「われ」として語り始めたので、私たちは神から語りかけられる「なんじ」として立てられました。すべての律法は、その関係の中で語られています。シナイ山において、民はそのような関係をはっきりと教えられたのです。

 このような神と人間の関係性をつかんだからこそ、彼らは荒野を駆け抜けて、「乳と蜜の流れる地」へと進み続けることができたのです。またそれが、約束の地に至ってからの新たな国の建設の原動力ともなったのです。さらには、後のバビロン捕囚から帰還して、神殿と国家を再建する力ともなったのです。国を復興する力の源は、こんなところにあるということを、私たちも学んでおきたいものです。

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 次回は、「神の前に開かれた人間」をお届けします。


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