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宣教師ザビエルの夢 51

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第四章 ユダヤ・キリスト教の真髄

三、「あなたの父と母を敬え」

生きた戒め
 安息日が始まる夕暮れ、伝統的なユダヤ人の家庭では、特別の夕食を整えます。会堂の祈りから帰宅した父親を迎えて食卓を囲み、ろうそくをともして喜びの日を家族ともどもに迎えます。このとき、火をともして祈りを主宰するのは母親の役割であり、ぶどう酒の杯の上で聖別の祈りをするのは父親の役割となっています。またその夕べ、両親は、男の子には「願わくば神がなんじを、エフライムとマナセのごとく成したまわんことを」と唱え、女の子には「願わくば神がなんじを、サラ、リベカ、ラケル、レアのごとく成したまわんことを」と唱え、しっかりと抱き締めるのです。(デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン著、松宮克昌、松江伊佐子訳、『現代人のためのユダヤ教入門』ミルトス、1992年)

 このように神の祝福を祈ることが、日常の行為において両親がその子らに与えられる最も基本的で最も大切なものの一つだといいます。そしてこれが、「父母を敬う」ことの基となっています。最も大切にしているものを、恭しく与えてくれる両親の愛を感じずにはいられず、愛を感じた子供は、愛してくれるものを尊敬せざるを得ないのです。

 また子供たちは、父母の言葉によって民族の歴史をたずね、自らが、エフライム、マナセ、サラ、リベカら、イスラエルの先祖と密接につながれていることを感じます。彼らもまた、敬うべき「父であり母」なのです。そして子供たちは、そのような先祖につながれて祈る父母の姿に畏敬(いけい)の念を抱き、喜びを感じます。この喜びに支えられて、さらに歴史に連なる「父母たち」を重んじることになるのでしょう。

 そして子供たちは、父母への尊敬を通して、自分という存在が何によって支えられているのかを知ります。父母たちをしっかりと生かしてきた人生哲学の柱、その真理の源を知ります。善(よ)き夫婦が愛し合い、自分が生まれたことを知って、自らの生命の源を学び、愛の源を知るのです。逆にそうでない子供が、無私の愛、公共の愛を学ぶことは、いかに困難なことでしょうか。

 一人の人間という存在が、いったい何によって生まれ、支えられているのか、真の愛をどのように知るのでしょうか。人は自らの子供を持つとき、それらのことがもっとよく分かるようになるのです。

 イスラエル民族の知恵を記した『旧約聖書』の箴言(しんげん)には、次のようにあります。

 「主を畏(おそ)れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな」

 このように父母の教え諭しを尊重することによって父母を敬うことを知り、さらには神を敬うことを悟ってきた人々がいたことを、思い起こしたいのです。

 イエスも律法の中心が「神を愛すること、隣人を愛すること」であることを指し示され、さらにそのように行えと言われました。神を愛し、隣人を愛する立体的な愛の軸は、「父母」の中に交差点を見いだします。ですから、ユダヤ・キリスト教の伝統の中で、「父母を敬え」というとき、そこに律法の中心が具現化されることを見いだして、ひたすらこの生きた戒めに倣おうとしてきたのではないかと思います。

 「父と母を敬え」という戒めは、今後もユダヤ・キリスト教の伝統を相続した父母の信仰生活に裏づけられて、家庭の柱となり、確かな力を発揮していくのでしょう。

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 次回は、「彼の神こそ神なり」をお届けします。


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