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心情開拓
心霊を育てる生活原則(163)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

13 神を所有する者
(1979年111日 韓国・旧本部教会)

▲李耀翰先生

摂理の中心人物の歩み

 しかしながらアブラハムは、自分の手で、愛する息子を殺そうとしました。アダムは堕落して親に反逆したわけですが、イサクは堕落したわけではありません。それなのに親の手で愛する息子を殺すということは、これは神様がアダムを失う時よりも、つらい事件ではありませんか。より憂える事件ではありませんか。神様御自身が、そういう場面において耐えきれないほどの心痛を受けたのに、アブラハムは、復帰摂理目的のために、それを勝利したのです。だから神様はアブラハムに感動し、所有されたのです。

 こういうふうに解釈してみると、神様の愛を所有していくためには、神様の三大苦痛を自分自身も受けて、味わわなければならないことが分かります。アブラハムの三大苦痛は神の苦痛であり、私たちの苦痛なのです。人の歩む路程において、一番心が痛むことは何かというと、自分の愛する人を自分以上に苦労させることであり、親である自分よりも、自分の子供を苦労させることなのです。それは人間であれば、だれもが忍耐できないことです。そういうところに、アブラハムが人類の信仰の親であるといわれる原因があります。

 ヤコブはどうでしょうか。彼は、「イスラエル」という名前で褒められましたが、結局それは、彼がハランの地における21年路程の苦痛を、神の苦痛と一体化したからにほかなりません。彼は自分の苦痛を神の苦痛として歩んだのです。

 ヨセフの場合はどうでしょうか。彼はポテパルの家にいるとき、ポテパルの妻に気に入れられて毎日言い寄られましたが、それを聞き入れませんでした。そのため、ポテパルの妻は、ヨセフが何一つ卑しい思いをもっていないのに、反対に「誘惑した」と言って策略にかけました。それでヨセフはポテパルの家で完全に不信されて、十何年間牢獄につながれ、悔しい恨みのある生活をしたのです。そのように、自分に不義なる条件がないのに、条件のある立場に立って、堕落した人間の救いを担当した神様のように、人の十字架を背負って神様を慰めたヨセフでした。結局、神様の苦痛と自分の苦痛とが通じて一致したので、ヨセフは神に信じられざるを得ない者となったのであり、その苦痛を通じて、神の愛と神の心情を相続したのです。

 だからイエス様も、そういう路程を歩きながら、神様を慰めました。先生も、イエス様の路程と同じように、人々に罪人のように見られ、この世で一番怨讐(おんしゅう)のごとく思われながら、6000年間の復帰摂理の中において苦痛をなめられてきた神様を慰めることができたのです。神様は今まで、死亡してしまった人類のために、自分一人で、人類の不信の十字架を背負ってこられましたから、それを解決するためにだれかが、その神様の痛みを受けてあげなければならないのです。それがアブラハムであり、イエス様であり、先生だったわけです。

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 次回は、「神様の心情相続の公式」をお届けします。


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