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ほぼ5分で読める勝共理論 35
人類歴史を無理やり物質的に解釈したマルクス

編集部編

「原始共産制社会」は想像の産物
 今回から唯物史観の批判と代案に入ります。

 唯物史観では、人類歴史は原始共産制社会として出発したと言っています。
 「共産制」ということですから、人々が財産を分け合って暮らしていた。個人の財産はなく、みんなが平等だった。支配者がいないので、みんなが平和に暮らしていたというわけです。

 でも、実際にそんな社会はあったのでしょうか。

 当時は今のように警察も軍隊もいませんでした。悪いことをしても捕まえる人がいません。
 そんな時代に、「財産がない」という理由だけで、人々が争いもなく平和に暮らすことができたのでしょうか。

 確かに人間が争うのは、お金が絡むことが多いのも事実です。でも争いはお金だけではありません。私有財産がないから平和だった、というのは極端な話です。

 むしろ、多くの遺跡の発掘調査を見ると、かなり古い時代にも支配者がいたことが分かっています。
 また、宗教的な行事を行っていたことも分かっています。

 支配者が生まれて国ができて、それから支配に都合のいいように宗教ができたといっていますが、そうではありません。
 マルクスが考えた原始共産制社会は、想像上の社会でしかなかったのです。

日本に奴隷制社会はなかった
 そしてマルクスは、原始共産制社会の次に奴隷制社会が現れたと言っています。
 確かにエジプトのピラミッドの時代をイメージすると、そんな時代があったのかもしれません。でも、日本にもそんな時代があったのでしょうか。

 日本にもかつて、卑弥呼(ひみこ)という女王がいました。でも当時の人々は卑弥呼の奴隷だったのでしょうか。
 卑弥呼に会うことを許されたのは、卑弥呼の弟だけだったという話もあります。卑弥呼は宮殿の奥で、ずっとまじないや占いをしていたともいわれています。その目的は支配だったのでしょうか。

 よく考えてみると、日本には奴隷制社会という時代はありませんでした。日本だけではなく、アジアのほとんどの地域で奴隷制社会はありませんでした。あったのはヨーロッパやエジプトぐらいです。
 ほんの一部の地域でしか当てはまらないのに、それを「人類歴史の法則」とするというのは無理があるでしょう。

 では、ヨーロッパには奴隷制社会がありましたが、その社会が封建制社会になったのは生産力の発展から来る奴隷の反乱によるものだったのでしょうか。

 そんなことはありません。
 世界史を学んだかたならお分かりだと思いますが、ローマ帝国が滅びた原因は奴隷の反乱ではありません。ゲルマン民族が侵入したことと、キリスト教が伝播(でんぱ)されたことが原因です。

 特にキリスト教に注目すれば、生産力という物質の変化で歴史が動いたのではありません。宗教の力、信仰の力で歴史が動いたということです。

 日本で歴史が大きく動いた出来事といえば、関ヶ原の戦いや明治維新などがあるでしょう。
 この変化は、別に奴隷や農民の反乱によって起きたのではありません。確かに農民の一揆も時々は起きていたでしょうが、それが歴史を動かす本質的原因ではなかったということです。

 マルクスは人類歴史を無理やりに物質的に解釈しました。そして革命を正当化するために、無理やり支配者と被支配者の対立に結び付けました。
 だからこんないい加減な理論ができたのです。

 次回も唯物史観の批判と代案の説明を続けます。

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