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日本人のこころ 87
尾崎放哉『咳をしても一人』

(APTF『真の家庭』308号[20246月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

小豆島に記念館
 季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじるのが「自由律俳句」です。正岡子規の俳句革新の後、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らによって始まりました。

 究極の孤独感を漂わせる「咳をしても一人」の句で知られる尾崎放哉(ほうさい)は東京帝国大学法学部卒で、優れた自由律俳句を残しながら、酒癖の悪さから職を失い、晩年は各所を流浪しました。彼が終焉の地に選んだのが八十八か所霊場のある香川県の小豆島で、58番札所西光寺の南郷(みなんご)庵で最後の8か月を過ごし、近隣の人たちの世話を受けながら息を引き取りました。墓は西光寺の墓地にあります。

▲尾崎放哉(ウィキペディアより)

 1994年、「放哉」南郷庵友の会と当時の土庄町長・塩本淳平氏の尽力により、終焉の地に南郷庵の姿を復元し、尾崎放哉記念館が開設されました。土庄港から徒歩約20分で、放哉の一高時代の師・荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の遺族からの寄贈や、多方面から収集した貴重な資料が展示公開されています。

 「昭和の芭蕉」種田山頭火と共に「漂泊の俳人」と呼ばれた放哉は明治18年、鳥取市の生まれで本名は尾崎秀雄。父は地方裁判所の書記で、放哉は14歳から俳句や短歌を作り始め、中学時代の句は「きれ凧の糸かかりけり梅の枝」「水打って静かな家や夏やなぎ」など。大学卒業までは約束事を守る俳句を詠んでいました。

 17歳で上京し、入学した一高で1学年上の荻原井泉水と出会います。井泉水は後に山頭火や放哉を世に出し、俳壇の重鎮となります。放哉は最大の理解者である井泉水を、生涯にわたって師と慕っていました。

 20歳で東大法学部に入学した放哉は、『ホトトギス』や新聞に俳句が載るようになります。この頃、いとこの女性を好きになったのですが、親族に反対され、失恋の痛手から哲学や宗教にのめり込みます。泥酔を繰り返し、結核の兆候に見舞われました。

 24歳で卒業し通信社で働き始めますが、1か月で退職、鎌倉の禅寺に通うようになります。26歳で東洋生命保険(現、朝日生命)に就職し、大阪支店次長を務め、郷里の遠縁の娘と結婚します。井泉水が創刊した句誌『層雲』に山頭火、放哉の句が掲載され、二人は世に知られるようになりました。

 この頃の句は「ふとん積みあげて朝を掃き出す」「青草限りなくのびたり夏の雲あぱれり」「夫婦でくしゃみして笑った」「今日一日の終りの鐘をききつつあるく」など。

 放哉は順調に出世していきますが、やがて人間関係に疲れるようになり、酒癖での失敗もあって、勤続10年目の大正10年、36歳で退職しました。この年、一燈園を創始した西田天香の『懺悔の生活』がベストセラーになっています。

 大正11年、放哉は学生時代の友人の紹介で朝鮮火災海上保険の支配人になり、京城に赴任しますが、酒で失敗し、約1年で免職。その後、満州で再起を試みますが、再発した結核が悪化し、現地の病院に2か月入院して帰国。妻に離縁されてしまいます。

 この頃の句は「白きものうごめく停車場の夜あけにて」「暮るれば教会の空ひろう鳴る鐘」「オンドル冷ゆる朝あけの電話鳴るかな」「石に腰かけて冷え行くよ背骨」など。

人の親切に泣かされ
 全てを失った放哉は大正1211月、京都の一燈園に入り、托鉢、労働奉仕、読経の日々を送るようになります。この頃の句は「つくづく淋しい我が影よ動かして見る」「ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人々」「ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる」「月夜戻りて長い手紙を書き出す」など。

 冬の寒さと労働奉仕の厳しさに肉体の限界を感じた放哉は大正133月、一燈園を去って知恩院塔頭の常称院に寺男として入ります。ところが、井泉水が寺を訪れた際に再会の喜びから泥酔し、わずか1か月で追い出され、知人の紹介で神戸の須磨寺に移ります。

 この頃の句は「障子しめきつて淋しさをみたす」「こんなよい月を一人で見て寝る」「にくい顔思ひ出し石ころをける」「犬よちぎれるほど尾をふつてくれる」など。

 大正143月に内紛から須磨寺を去って一燈園に戻り、5月に福井県小浜の常高寺に移りますが、2か月後に寺が破産。行き場を失った放哉は、関東大震災で妻子を失い、京都で一人暮らしをしていた井泉水の元に身を寄せました。

 この頃の句は「うつろの心に眼が二つあいている」「ころりと横になる今日が終つて居る」「一本のからかさを貸してしまつた」「昼寝の足のうらが見えている訪ふ」など。

 病気がちになった放哉は井泉水に、「海の見える所で死にたい」と訴えました。井泉水は遍路巡礼で小豆島を訪れた時に知り合った島の句友に、海辺の庵を探して欲しいと依頼。その紹介で放哉は大正14年8月、島に渡り、西光寺・南郷庵に住み込みます。庵主として時々訪れる遍路を迎える孤独な暮らしで、ここが終(つい)の棲家となったのです。「人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る」と詠んでいます。

 大正1547日、肺結核で亡くなり、享年41。世話をしていた隣家の老婆に看取られての最期でした。辞世の句は「春の山のうしろから烟(けむり)が出だした」。井泉水が西光寺に葬り、戒名は大空放哉居士。山頭火は二度、放哉の墓に参っています。

 小豆島での8か月の句が「咳をしても一人」「とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた」「障子あけて置く海も暮れ切る」「足のうら洗へば白くなる」「入れものが無い両手で受ける」「一つの湯呑を置いてむせている」「これでもう外に動かないでも死なれる」などでした。

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