2024.06.10 22:00
宣教師ザビエルの夢 45
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第四章 ユダヤ・キリスト教の真髄
一、選民のこころ
●「ユダヤ・キリスト教」ということ
さて、これまで、簡単に「ユダヤ・キリスト教の伝統」と言ってきましたが、立ち止まって眺めてみると、驚くべき言葉です。そこには、いい知れぬ歴史的な意味が込められているように思えてきます。その意味を十分に探究すれば、選民の意味がよりよく見えてきそうですし、また、今日なされる神のみ業を見つめる視点を得ることができそうです。
もしかりに、キリスト教がユダヤ教の伝統を離れず、パレスチナを中心として離散したユダヤ人共同体に受け入れられ、発展し続けたとしたら、その姿は今とは全く違っていたことでしょう。また、もしこのような仮定が許されるとして、イエスが十字架の道を経ずに、祭司長、律法学者らに受け入れられ、王の王として歓迎されていたとしたならば、キリスト教というものは全く様変わりしていたでしょう。その時、「ユダヤ・キリスト教」という言葉自体が必要であったのだろうか、という疑問がわいてきます。
ユダヤ民族の培ってきた伝統が昇華され、ユダヤ教もキリスト教も区別なく存在する「選民」の姿は、「国々の光」(『旧約聖書』イザヤ書49・6)として、人類の模範となっていたかもしれません。それはそのまま、国の理念を与え、グローバル世界の伝統として広がったかもしれないのです。この言葉は、そんな想像をかき立てます。
しかし歴史は、ユダヤ民族を中心とするユダヤ教と、ユダヤの伝統から次第に遠ざかる形で、異邦人を中心とするキリスト教が生じました。キリスト教はその過程で、ユダヤからあるものは相続しましたが、あるものは捨て去りました。一方、ユダヤ教はキリスト教との違いを際立たせることによって、自己のアイデンティティーを保ってきたところがあります。それだけではなく、ユダヤ教とキリスト教は、長き敵対関係の中で、互いに深く傷ついているのです。両者の間には、不理解と不寛容の深い溝が横たわっていて、容易には越えることができないのが現実です。
ですから、「ユダヤ・キリスト教の伝統」という言葉の奥にあるものをたずねていくときに、ユダヤ教とキリスト教、この両者に横たわる怨みを解き、本来分かれるべきではなかった者同士が、分かれなかった立場での親しい関係を回復しなければならない、という主張がはっきりと含まれているように思えます。メシアを待ち望んできた民と、メシアがすでに来たという民が、相分かたれることなく新たな伝統を形成していれば、そこに包含されていたであろう両者の良き伝統を、自らの内に併せ持ってこそ、本当の意味で選民ではないかと、私は考えるに至ったのです。その意味で「ユダヤ・キリスト教の伝統」を探る営みは、ユダヤ教の伝統に立ちつつそれを昇華していかれた、イエス・キリストの教えと願いの根本をたずねる営みなのではないかと考えるのです。
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次回は、「律法の完成を目指して」をお届けします。