2024.06.03 22:00
宣教師ザビエルの夢 44
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)
白石喜宣・著
第四章 ユダヤ・キリスト教の真髄
一、選民のこころ
●選民とは何だろうか
一冊のユダヤ教入門書を開いてみると、「ユダヤ人の役割は何か」という章が目に留まりました。そこには、「ユダヤ人はこの世界に唯一神を持ち込み、すべての人々が神にもとづく一つのモラルの基準を受け入れて、互いに兄弟として生きるよう呼びかけた」とあります。(デニス・プレガー/ジョーゼフ・テルシュキン著、松宮克昌/松江伊佐子訳、『現代人のためのユダヤ教入門』ミルトス、1992年)ユダヤ人は自分自身を「神の掟のもとに(自らと)世界を完成させる」決意を標榜(ひょうぼう)した民と考えているといいます。唯一の神をないがしろにすることのできない「選民」としてのアイデンティティーがそこに表現されています。
ここまでキリスト教の歴史の断片をつづってきました。日本と古代ローマにおけるキリスト教をめぐる人々の営みの中には、こんな出来事や発想、はたまた葛藤や苦悩があったということを、前章までで少しばかり紹介しました。そこで私たちもまた、その歴史の流れと全く無関係とはいえないことを感じていただきたいと思います。
450年前、マラッカで初めて日本人と出会ったザビエルは、その知識欲の旺盛(おうせい)さと誠実で徳のある人物の姿に、感銘を受けています。そして、日本についてさまざまな情報を得る中で、日本への宣教を決意するようになりました。ザビエルは、「才能豊かで、礼儀正しく、宗教についても、その他の学問についても、知識欲が旺盛」な民の住む日本を、「信仰を広めるためにきわめてよく整えられたところ」と見ました。(河野純徳訳、『聖フランシスコ・ザビエル全書簡Ⅱ、Ⅲ』平凡社、1994年)
ザビエルは、神との出合いによって心からの喜びを得、さらに神に仕えて人類の魂の救済のために、地の果てまで行って奉仕するという使命感を抱きました。ユダヤ・キリスト教の伝統の上に立つ彼の立場を考えてみるとき、彼は、自ら日本に赴いてその使命を果たすことによって、この国民の中から彼と同様の喜びと使命を感じる者が出てくることを信じたようです。そして、そのような民が増え拡(ひろ)がるときに、この国が神の祝福を受けた「選民」として世界に大きな貢献をなせるだろうと考えたのかもしれません。
ザビエルのもたらしたキリスト教の信仰伝統に連なる者として、私は、どうしても「救済史において受諾すべき使命とは何か」を追求せざるをえません。大胆にもそのような追求をなさしめてきたのは、私の中にわき起こる「選民とは何か」という問いではなかったかと今にして思うのです。ここでは今一度、この問いかけを正面にすえて、ユダヤ・キリスト教の本質にまで、踏み込んでみたいと思います。それによって、心の時代の支柱を求めるこの国の人々に、一つの考察材料が提供できればと思うのです。
---
次回は、「『ユダヤ・キリスト教』ということ」をお届けします。