https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4223

心情開拓
心霊を育てる生活原則(158)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

12 第37年路程を走り抜くに当たって
(1976年1012日 東京教会)

▲李耀翰先生

私の苦しみは神の苦しみ

 何か質問を受けましょうか。私の話で、皆さんは、今まで学んできた「原理」が、今は本当に昼のように明らかになり、生活圏内で実らなくてはならない時だということを、各自、再び自覚しました。

 何か問題をもっていて、「み旨が本当かなあ、先生は神様が本当に立てた中心人物かなあ」とか考えるのは、主体と自分との関係がはっきりしていない、徹していないのが原因です。

 それから二つ目は、お互いの関係が良くないことです。この二つしか問題がないのです。ほとんどの問題は、主体者が決定すれば、問題はないのです。主体者に召された自分の立場を知れば、問題はありません。

 根本問題はそこにあります。それが解決されれば全部解決できるのです。だから、縦的関係がはっきりしていない人は、問題があるのです。それから、自分の立場に立つと、横的にお互いの関係が難しいのです。

 「難しい」というのは、自分を否定できないということです。信仰路程において「難しい」とは、自分を否定しにくいという意味なのです。自分を否定すれば、難しくないのです。

 死のうとすれば、難しくないでしょう。生きようとするから、難しいのです。死のうとする者は、死が訪ねてきたなら、「ああ来たか、待っていましたよ。早く来なさい」と、こう言えるのですが、生きようとする者は、難しいのです。

 だから、皆さんに問題があるのです。どんな場合においても、問題は二種類しかないと思うのです。縦的関係がはっきりしていないとか、そこに自信がない。どうも中心が確立していない。その主体者に対して、中心がはっきりしていないということです。それから、お互いの関係に問題があるというのは、アベルに対して私を否定したくないからです。

 アベルがアベルらしくないから困ったと、こういう悩みです。いくらカインを占領しようとしても、なかなか言うことを聞かないとか、そういう平面的な問題になります。

 家庭をもった者、祝福を受けた人は、夫婦関係でも、お互いに、「あなた、そうしなさいよ。そうしたら私もついていく」と、自分が責任をもたないで、お互いに責任をもたせようとしながら問題を起こす家庭がほとんどです。「お前のゆえに私が苦しい、お前がもうちょっと良くすれば私はそうでないのだが」と相手にぶつけるのです。相手に任せるというか、家庭問題もそうなのです。

 自分が責任をもった家庭は、そうではありません。相手の欠点が、お互いに自分によってだという家庭は、これは和睦せざるを得ません。そうでしょう。お互いに自分によってだという家庭は、これは和睦せざるを得ないのです。主体者は私と、こういうふうに思う人は、問題ないのです。

 自分の苦しみは神の苦しみ。そういうふうに考える人は、絶対引っ掛からないのです。しかし、自分と主体の立場を別々にして考えると、問題に引っ掛かります。それしかないのです。信仰路程において引っ掛かる理由は、みなそこなのです。主体者の立場での自分を考えないと、全部引っ掛かってしまうのです。だから、自分を神のものにしなさい。

 「自分にぶつかる問題は、全部神が担当したものを多少味わわせてくださるのだ」と、そう思うのです。そうでしょう。そう習ったでしょう。しかし、何か任せてみると、「ああ私は運が悪い、祖先が悪い、血統が悪い」などと、もうすぐに自分の次元で、自分にとらわれてしまうのです。

 自分のぶつかった問題に、すぐ支配されてしまうのです。それを超越しなくてはなりません。「これは神が担当した苦しみを、私に任せたのだ」と考えるのです。神を中心として担当すればいいのに、自分に任せられて運が悪いとか、どうも自分はいつもこうなるとか、そう思えば神と自分とが離れてしまいます。立場が違ってしまいます。そうすると、自分はもう救われる道がないのです。だから、「主体者の立場に立て」、「信仰の出発の動機から転換せよ」というのです。

 それから悩みは、祝福を受けて、「どうも主人が先生のようでない」。それから男性は、「どうも自分の相手が信仰の母のようでない、引かれていかない、もういつも衣食住に対して心配ばかりするし、み旨を心配しない。どうも、あれが天のお母さんかな」。こういう家庭をどうするか。

 また、教会に来てみれば、「どうもうちの教会長に心が引かれない。その生活するのを見ると、人間的な考えをもったり、人を見ると差別したり、欠点が見えてしようがない」。そういう教会長の欠点を見るようになると、自分の心霊に相当打撃を受けます。そういう時にどのように価値視するか。夫婦もそうなる時に、どう価値視すべきでしょうか。

 欠点が見える時に、どのように自分が救われるか、そこを抜けるかというのです。それを欠点と見ないで、神様の問題として見るのです。それを善に見るのです。欠点と見ないで善に見るのです。そして悩みながら神様の悩み、神様の苦しみ、神様自体がもっている問題であると思い、主体者の立場でそれを担当するのです。それで、自分も救われるし、相手も創造する可能性があるのです。

 相手の欠点を神様の問題のごとく苦しむ、神様の苦しみを担当したつもりで苦しめば、その人も救われる可能性があるのです。それが創造力です。

 創造力は相手の欠点を自分の欠点、神の苦しみと思うところから与えられ、これは相手の欠点を補ってあげられる可能性のある考え方なのです。

 苦しいのは、アベルがアベルらしくないのが一番苦しいでしょう。そういう時には、自分がアベルになりなさい。アベルがアベルらしくないから、自分がメシヤになればいいでしょう。メシヤの欠点を見たなら、自分がメシヤになりなさい。「神様、どうも私より、ちょっと変じゃありませんか?」、そう思えば自分が神様になればいいでしょう。本当です。神様も、そういうふうにおっしゃるに違いありません。神様も、「我は欠点があるから、お前が必要なのです」とおっしゃるでしょう。

 神様も、「私たちでなくてはならない」と言われるでしょう。それは何かというと、自分もできない面があるからです。自分も喜ぶには、相手なしには喜びを受けることができないのです。相手がないと悲しむのです。自分が喜べば、神様も喜ばれるでしょう。そこまで行けるのは、相当成長した立場においてですが。

 だから、私たちは今、神様を喜ばせる時が来たのです。神を現せる時が来たのです。そういう者は、自分が責任をもたなければならないのです。み言(ことば)を学びなさい、「原理」を知れと、それで「原理、原理」と言うのです。主体者の代わりにならせんがために、「原理」を教えるのです。

 み言を学んで、自分を創造していきながら、お互いに創造しよう。お互いに創造主になろう。お互いに「ために」なろうと。まあ、こういう責任があるから、「原理」をよく悟れば、簡単に主体者の欠点によって失望しません。簡単にしないのです。「原理」を悟れば、そういう事情しかないと思うのです。縦的と横的の関係以外に引っ掛かるところがないのです。

---

 次回は、「み言による心情復活」をお届けします。


◆『心情開拓』を書籍でご覧になりたいかたはコチラ