2024.05.24 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(157)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
12 第3次7年路程を走り抜くに当たって
(1976年10月12日 東京教会)
隣人を愛しなさい
「あなた方は苦労しなくてもいい。迫害を受けなくてもいい。これから時が来たら、あなた方を隠してはならない」というのです。統一教会の食口(シック)は少ないのに、「恋しい、恋しい」と私たちを慕ってくる人が多くなり過ぎると、踏まれて死んでしまいます。だから、隠しておかなくてはならないというのです。逃げ道を作っておかなくてはなりません。そんなに、安っぽく売ってはいけないというのです。
今まであんまり私たちは、安っぽく道端へ行っていました。家庭訪問をさせた。あんまり値打ちのない人間のように、惨めな生活をしました。しかし、だんだんだんだんと、慕ってくる人が多くなってくるに違いないと思います。そういう時です。皆さん、そのことが本当か体験してみないと分からないでしょう。本当にそうかどうか、自分の基台をつくってみないと分からないのです。
原理がそうなのか、時がそうなのか、実際霊界はそのようにしようとしているのか、私たちは暮らしてみないと分かりません。ただ言葉だけ聞いても、実際自分の生活に現してみないと、体験してみないと分かりません。
信仰してきた経験において、なるほどそうかと、皆さんは思うでしょう。相当以前は、こういう話をしても、夢のように思ったけれども、今は、目で見て暮らすような時なのだから、信仰が必要ないのです。だから、情をもって暮らせば、実体的に主管され、もう直接主管されるのです。
そのように現れる時です。自分の価値を本当に重要視しながら、お互いの関係の基準を高めて、霊界を総動員する時です。霊界を主管する時です。私たちの願いによって、霊界が動く時が来たのです。
霊界が主管される時です。だから霊的なことをあまり、願ってはいけないのです。私たちは基台を重んずるべきです。
日本の食口たちが、韓国に「ロンサン・ハルモニ、ロンサン・ハルモニ」と言って、みなよく来て、「解放、解放」と言ったけれども、それは幼いから解放してあげたのです。
しかし、自分の力で自分の健康を保ち、維持しなくてはならないのです。人に祈祷を受ける必要はないのです。命懸けで信じる者が、なぜ人に負債になるでしょうか。自分の力でやるのです。人を愛せばいいのです。
自分の価値を自分が信じて、そばの人の価値を自分のごとく愛せば、霊界は干渉できません。人を差別するから、霊界が干渉し始めるのです。自分の価値をでたらめに取り扱ったり、自分の価値を上げたり下げたりする人は、兄弟を差別するのです。
そして自分を無視したあとに、人を無視するのです。だから自分の価値を維持できない人は、人を差別するのです。そうすると、霊的にやられてしまいます。だから霊を離すには、人を愛しなさい。祈祷して解放しようとしてはいけません。
しかし、それができないから悩むのです。重病人は、病院に入院しなくてはなりません。しかし、多少自分で健康を回復する可能性のある人は、自分でやりなさい。
私たちは、今、「原理」を知っているから、自分でできるのです。どういうふうに暮らせば、霊が私たちを貴重に思い、どういうふうに暮らせばいじめるか、そういうことをみな知っているでしょう。
知っていながら、何も祈祷を受けに行く必要はないでしょう。祈祷を受けてきて、もしその基準が下がれば、もっと激しいのです。受ける時の感謝の念とか、受ける時に刺激があった場合、戻ってその基準が下がると、もっと激しく霊界がいじめるのです。
霊界に圧迫されるのです。だから危ないのです。人に負債になる人は危ないのです。自分の力で、自分の責任で、人に負債にならずに一人前の人間となれる「原理」を私たちはもっているのです。
そうでしょう。だから霊通者などにも、関心をもたないほうがいいのです。だからといって、霊界を無視するのではないのです。
霊界は私たちを信じているのです。私たちが霊界を信じているのではなくて、霊界が私たちによって救われようとするのが、原理でしょう。だから霊界は、私たちをとても重んじているのです。
だから、霊界よりも自分を重んじて、お互いの関係を重要視すれば、霊界はその基台の上で救われようとするのです。そういう原則を知った以上は、いくら霊通して皆さんの背後関係を調査したり、祖先たちを知ったりしても、自分に責任があるのです。
私たちの生活実力によって、解放するようになっているのです。その人の祈祷によって、解放されるようにはなっていないのです。
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次回は、「私の苦しみは神の苦しみ」をお届けします。