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心情開拓
心霊を育てる生活原則(156)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

12 第37年路程を走り抜くに当たって
(1976年1012日 東京教会)

▲李耀翰先生

愛の関係を見せる時

 私たちの路程において、どういう時にみ言(ことば)に自分が熟するかというと、下がる時なのです。下がる時だから、カインを自然屈服する時ですが、カインの立場にいる人を感動させるには、こちらに涙なくしてできません。

 怨讐(おんしゅう)を愛するのは、つらいことです。怨讐を愛しやすい人はいないのです。通じる人を喜ばせるのも難しいのに、通じない人を喜ばせるのは、僕(しもべ)の僕の立場へ下がって、価値のない人を、自分より価値視しなくてはならないのです。価値のない人を価値視するのは、簡単ではありません。

 相当な涙なしには通じないのです。だからカインを自然屈服するには、涙なしにはできません。その涙の中で、み言に自分が熟していくのです。だから、涙なしには自分を復活できません。それは信仰路程を歩きながら、神との因縁や、神の事情を相続する時には、すなわち十字架の路程、死亡の路程を、涙なくして歩いた人はいるはずがありません。歩けないことは、私たちが蕩減(とうげん)路程において相当学んで、また、見てきたはずです。

 だからみ言と自分、それから祈祷生活についていえば、今は祈祷自体を祈祷というより、今、話したとおり、生活の中で、祈祷を通じて情を復活するのです。だから生活自体の中に基台をもつのです。祈祷するその本性を土台として、暮らさなければなりません。

 祈祷する時は、みな本性によるでしょう。祈祷してみなさい。自分はどうなるのか、祈祷してみるのです。祈祷ができない人は、生活をでたらめにしてきたからです。生活において、中心をもって暮らしていなかったから祈祷ができないのです。だから祈祷ができる時の自分の本心、それを土台として生活すれば、み言を相当受肉、または経験しやすいのではないかと思います。

 み言に自分が実らなくてはならない時なのです。カインをアベルのごとくに侍っていくには、涙、愛なしにはできないことを、私たちは学んできましたが、それが果たして、今に現れてくるのでしょうか。

 先生は世界に現れました。私たちも、これから現れなければなりません。私たちはどのように現れるか。私たちの現れ方は、先生の現れ方と違うのです。

 先生はあのような大会を通じて、全人類に現れたのですが、私たちはカインを屈服しながら、私たちの雰囲気が霊の再臨できる基台をつくって、霊界が総動員で後孫を連れてくるように現れなければならないのです。

 今まで私たちが総動員して、人々を集めたけれども、霊界が総動員して私たちに集まってくる、そのような現れ方です。ちょっと違うのです。だから私たちにおいては、私たちの暮らしている生活圏に他の人が来てみて、「帰りたくない、ここで暮らしたい」と思うのです。

 霊界も証(あか)して、「行け」と言うのです。このように案内するようになれば、そこにいる人たちは、霊界に認められ、それから地上の人にうわさが出ると、そのように現れなければなりません。

 愛でもって、たくさんの心霊が引かれてくるのです。だから、霊界も証できると、このように現れる時が来ました。実体として現れる時が来たのです。

 私たちの生活を通じて、証す時が来たというのです。見せてやらなければなりません。今までは「原理」を証したけれども、実際を証するのです。実際を見せるのです。

 兄弟関係に結ばれた愛を見せてあげるのです。第三次路程においては、言葉で伝道する時ではなく、愛を見せる時なのです。

 愛の関係を見せる時が来たのです。永遠に結ばれた人たちは、離れられないのです。霊界も率先して協助するから、これからは去る人はいません。地上を見て引かれて、霊的にも証されたら、去るのに行く道がないでしょう。どこへ行きますか。

 今まで去った人は、なぜ去ったかというと、お互いの関係がまずかったからです。み言は素晴らしいけれども、先に来た人たちに、どうも心が引かれなくて、それで去ったのです。

 今までの人たちは、霊界もやむを得ずに、「かわいそうだ。お前たちは待ってておくれ、時が来たらまた呼ぶから」と、霊界がその人を保留しておいたのです。罰しないのです。主体が主体者らしくない。アベルがアベルらしくない。ただみ言のラッパは吹いたけれども、実体がないのです。だから心はみ言によって来たけれども、心が引かれなくて去ったので、霊界から見ても、気の毒だったのです。それが今まででした。

 しかし、これからはそういう偽物ではなく、情的に結ばれた実体を見せる時になりました。それに引かれてきた以上は、他に行く道がないです。行こうとしても、考える間がないのです。そういう横道を見る間がないのです。引かれて霊界が押し出してきたのです。

 これから復興します。私たちの兄弟関係がそのように結ばれれば、これからはどんどん復興します。復興するに決まっているのです。だから先生も、「これから復興するようになっている。霊界が伝道するようになった」と言われます。

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 次回は、「隣人を愛しなさい」をお届けします。


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